豊後 日隈城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①城址碑

イメージ 2②本丸日隈神社

イメージ 3③本丸を望む

イメージ 4④大手門枡形石垣

イメージ 5⑤大手門枡形石垣

イメージ 6⑥遠景


訪問日:2014年1月

所在地:大分県日田市

 日田は平安時代から長年の間大蔵系日田郡司日田氏が領してきたが、永享4年(1432)21代七朗丸永包の時に家内の内紛により滅亡し、永包の姉を妻としていた大友親満が郡司職を継ぎ、日田永世と名乗った。

 その大友系日田氏も6代親将が本家の大友義鑑に悪政を咎められて自刃し、郡司職は断絶し、義鑑に任命された8奉行が統治した。

 しかし本家の大友氏も文禄2年(1593)吉統が朝鮮での敵前逃亡を責められて秀吉により改易されると、日田は豊臣家直轄の蔵入地となり、検地を経て宮城豊盛が代官として入り、日隈城を築城した。日田を直轄としたのは良質な日田杉の確保が目的だろう。

 文禄4年(1595)には毛利高政が日田・玖珠2万石を与えられ、五重の天守や三階櫓などを増築している。慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、はじめ西軍に与して丹後田辺城攻めに加わったが、東軍に寝返っている。

 一方、九州では復権を目指す大友吉統が西軍の支援で黒田家家臣の松井康之が守る木付(杵築)城を攻撃、救援に向かった加藤清正軍が日隈城に開城を迫ったが、黒田如水の援軍が石垣原の戦いで義統を破ったため、9月17日加藤軍は兵を引いた。

 しかし、9月24日如水は重臣栗山利安を日隈城に送り込み、留守居の森慶則に開城を迫る。慶則は鍋島氏に救援を要請するが、結局黒田氏に城を明け渡した。

 慶長6年(1601)小川光氏が日田に派遣されて利安は筑前移封となった黒田長政に従い、朝倉郡に1万5千石を与えられ、麻底良城主となった。光氏はあらたに丸山(永山)城を築いて移った。


以下、現地日の隈神社由緒より

祭神  後醍醐天皇 楠 正成命 春日大明神
所在地 日田市大字庄手601番地  境内 10,913平方米

 後醍醐天皇、楠正成命の二柱は、明治維新前より旧日田郡光岡村(友田村)の「松陽山岳林永昌禅寺」に安置されていたが、明治元年太政官より神仏分祀の達しがあり、時の日田県知事松方正義(後の内閣総理大臣大勲位侯爵)はこの命令に従いここ日の隈山(亀翁山)に社殿を新営して明治三年五月遷宮、日の隈神社と称し奉った。
 尚九州に於て楠正成公を祀ってある七社の内、本神社は最高の社格を有していた。
 春日大神は、天正以前より鎮座していたが、慶長六年三月、領主毛利伊勢守高政の城代隼人佐長世法師、本郡田島村の若八幡神社の相殿に遷し奉り、350年後の安政三年七月再びこの山に鎮座し、大正九年九月に本神社に合祀した。