播磨 佐用城(福原城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸土塁

イメージ 2②本丸土塁

イメージ 3③空堀

イメージ 4④土塁


訪問日:2015年1月

所在地:兵庫県佐用郡佐用町

 元弘3年(1333)後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた元弘の乱で鎌倉幕府の総大将として上方に派遣された北条(名越)高家の眉間を撃ち抜いた赤松一族の佐用範家が築城したといわれている。

 その後は同じく赤松一族の福原氏が城主となり、福原城とも呼ばれ高倉山城とともに上月城の支城として機能したが、天正5年(1577)11月、上月城主の赤松政範が毛利家に与すると織田の武将羽柴秀吉が但馬攻めを中断して西播磨に攻め寄せてくる。

 26日(あるいは27日)には福原助就の守る高倉山城が陥落し助就は討死、27日には秀吉の武将竹中半兵衛重治と小寺官兵衛孝高が政範の妹婿である福原則尚が守る佐用城に押し寄せ、12月1日佐用城は落城して則尚は自害した。

 12月3日には上月城も陥落し、秀吉は城兵・女子供までも処刑して上月城には尼子勝久が置かれ、佐用城は廃城となった。なお佐用城の正式な城主は政範の弟政茂で則尚は代官だった可能性もある。政茂は上月城で兄とともに討死したと思われる。


以下、現地案内板より

佐用城(福原城)

 中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
 元弘3年(1333)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われている。
 戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
 後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され。「福原霊(俗に頭様)」として今に広く崇敬されている。

(西暦を修正)