播磨 白旗城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

イメージ 2②櫛橋丸

イメージ 3③本丸

イメージ 4④三の丸土塁

イメージ 5⑤三の丸堀切

イメージ 6⑤水の手石垣


訪問日:2001年11月( 法2015年1月(↓きキΑ

所在地:兵庫県赤穂郡上郡町

 赤松圓心は播磨佐用庄の村上源氏赤松茂則の子として建治3年(1277)に生まれている。最初の元寇(文永11年=1274)と2度目(弘安4年=1281)の間の緊迫していた時代である。諱は則村。

 元弘3年(1333)1月21日、57歳の圓心は護良親王の令旨を受けていち早く倒幕の兵を挙げ、後醍醐天皇に味方した。摂津摩耶山城に入った圓心に対し、2月11日六波羅軍が攻め寄せるがこれを撃退する。

さらに3月10日には瀬川合戦(現大阪府箕面市)で23万?!(太平記)の六波羅探題軍をわずか3000兵で破り、12日には京都の手前の山崎まで進出する。

 京都では苦戦が続き、八幡で待機していたところ4月27日幕府軍の名越高家と足利高氏の出陣を知るとこれを迎撃、家臣の佐用頼家が高家を討ち取る。

 その後足利高氏が自領の丹波篠村で兵を集めて反幕府の兵を挙げ、5月8日、圓心は高氏や千種忠顕と合流し、六波羅を陥落させる。関東では新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡した。

 建武の新政では一旦播磨守護職を与えられながら没収されるなど不遇で、建武元年(1334)護良親王が失脚すると圓心は怒って佐用庄に帰った。

 圓心は建武政権からの離反を決意し、建武2年(1335)北条時行の中先代の乱平定のため鎌倉に向かった高氏改め足利尊氏に息子の範資、貞範を従軍させた。

 尊氏は鎌倉で離反を表明して京都に侵攻する。建武3年(1336)尊氏が楠木正成らに敗れて九州に落ちた際も足利方に留まり尊氏から改めて播磨守護職に任命された。

 圓心は書写山(姫路市)を中心とした市川を第一防衛線、城山城(たつの市)を中心とした揖保川を第二防衛線、白旗城を中心とした千種川を第三防衛線として徹底抗戦する。新田義貞は同年3月から5月までの50日間圧倒的な兵力で2000兵の白旗城を攻めたが、落とせなかった。

 そこに九州から体制を立て直した尊氏が東上してくると新田軍は白旗城から撤退し、尊氏はこれを追撃、5月25日湊川合戦に勝利して、息子範資は摂津守護となり、赤松氏は摂津・播磨2カ国の守護となった。

 尊氏・直義兄弟が対立した観応の擾乱においても尊氏に味方したが、直義の養子直冬追討の出陣を前に観応元年(北朝年号・1350)1月11日京都七条の自邸で急死した。74歳であった。

 
 登山口近くの空き地に車を止めて柵を開けて登山開始、全長2.1kmのコースなので先日のアップダウンの繰り返しで2.4kmの三草山よりは楽だと思っていた。

 しばらくなだらかな道を歩くとトイレや案内図のある一画に出てまた少し歩くと谷筋の岩だらけの道となり、これがなかなか厳しい道のりとなる。数人の登山客とすれ違う。

 やがて道は尾根を辿るようになり、最初の岩場を削った堀切と石積のようなものに出会う。遺構に出会うと疲れが少し楽になる。そして櫛橋丸と二の丸・本丸方向への分岐点に、どちらにするか迷っていたところに何やら女性の集団の声が聞こえてきて櫛橋丸方向へ退避する。櫛橋丸(写真◆砲鯣瓦韻譴亠泙焚爾蠅任呂△襪そのまま二の丸方向に到達できる。

 馬場丸・二の丸を経てついに本丸に到着(写真)、この瞬間に疲れも吹き飛ぶ。そして忘れずにその先の唯一の土塁の残る三の丸(写真ぁ砲修硫爾遼拈據兵命伸ァ砲盡学する。

 最後に、二の丸の下の水の手に石垣(石積?)があるとのことだったので捜索する。それらしきものはあったがなかなかまとまったものが見つからずあきらめかけた時にようやく発見(写真Α法⇒汁朧幣紊里發里世辰燭里破?して下山する。


以下、現地案内板より

白旗城跡

 白旗城跡は、標高440mの白旗山上にあり、南北朝時代の建武3年(1336年)に赤松円心が築城し、新田義貞率いる6万の軍勢による50余日の城攻めに耐えた堅固な山城です。
 以後、嘉吉の乱(1441年)により赤松氏が滅びるまで、白旗城は播磨・備前・美作3ヶ国の守護大名赤松氏の本城でした。
 築城当時の白旗城は、合戦の際山上の尾根を削って、少人数で立てこもる臨時の防御施設として築かれたとみられますが、現在のこる城跡の一部は、城郭が大規模化していった戦国時代に築かれたものとおもわれ、全長470m、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・大手郭などの曲輪跡や掘切・土塁・石積などの防御施設がのこっています。
 白旗城跡へは、近畿自然歩道を利用して赤松側と野桑側から登ることができます。

上郡町教育委員会