豊後 永山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸櫓台

イメージ 2②本丸櫓台

イメージ 3③本丸櫓台

イメージ 4④本丸石垣

イメージ 5⑤本丸虎口

イメージ 6⑥城下を見る


訪問日:2014年1月

所在地:大分県日田市

 小川光氏は近江浅井氏の家臣だった小川祐忠の子で、母は一柳直高の娘(直末・直盛らの姉妹)。関ヶ原合戦では父とともに西軍についたが母の実家一柳氏の奔走で赦されて日田に入った。恐らく代官としての入城であろう。

 光氏は慶長15年(1610)嗣子を残さずに病死して断絶、一族の小川喜助と小川又右衛門が引き続き管理したが、元和2年(1616)に石川忠総が6万石を与えられて丸山城に入った。

 忠総は大久保忠隣の次男で、外祖父石川家成の養子となり美濃大垣城5万石を継いでいたが、慶長19年(1614)実父忠隣が大久保長安事件で改易されると、これに連座して駿河に蟄居となっていた。

 しかし、翌年に大坂冬の陣がおこると赦されて従軍し、夏の陣でも戦功を挙げて日田に加増の上移封された。忠総は丸山城を修築し、永山城と改めて今に残る城下町を整備した。

 忠総は寛永10年(1633)下総佐倉7万石に移り、永山城は中津小笠原藩預かりとなり、寛永16年(1639)には幕府直轄領となり永山城は廃され、日田代官所が築かれた。


以下、現地案内板より

月隈神社   ご祭神  大宮賣神他六柱 菅原大神 稲荷大明神
       夏季大祭(風止鎮疫)七月土用入三日目  秋季天領祭 十月第三土曜日
       初午大祭 旧二月初午

由緒

当社は、日田市北豆田一番地に鎮座し、大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根命、比賣神、崇徳天皇を主祭とし、創立年代は不詳。慶長六年(1601)日田代官小川壱岐守光氏城主が月隈山に丸山城を築き元和二年(1616)石川主殿守総輔六万石の領主として居城し領民の繁栄と豊穀祈願の為社殿を創設し諸神を鎮祭する。
後に永山城として日田郡代が永山布政所を置く。
歴代の西国郡代及び代官の崇敬厚し、延享二年(1747)代官岡田庄太夫御陣屋御門前に天満宮を歓請せしも大正年間本社に合祀する。
寛政五年(1793)西国郡代羽倉権九郎が伏見稲荷の分霊を歓請し合祀した。
後世本社は、代官稲荷又は、権九郎稲荷とも称せられ初午の祭祀には近郷よりの参拝特に多く御神徳、明らかなり、  明治六年村社に列した。

平成十八年十月吉日  宗教法人 月隈神社


月隈公園

日田三丘の一つ、慶長の昔(1601)豊臣秀吉の家来、日田郡令小川壱岐守が城を築いて丸山城と名づけ、石川総輔のとき永山城と名を改めました。貞享三年(1686)からは、日田郡代が岡の南側に永山布政所をおいて九州各地にある幕領や九州各藩の目付としてその威勢を天下にしめしたところです。岡の正面山腹に散在する横穴は、千数百年前の豪族の古墳だと伝えられています。

日田市