播磨 小野陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①陣屋跡碑

イメージ 2②磐代神社


訪問日:2000年4月

所在地:兵庫県小野市

 小野藩は11代藩主末徳の時に明治維新を迎える。末徳の3女満喜子は神戸女学院を卒業後単身で渡米、米ブリン・マー大学留学中にキリスト教に入信し、帰国後の大正8年(1919)アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズと結婚している。

 ヴォーリズは1880年米カンザス州生まれ、1905年に滋賀県立商業学校の英語教師として来日したが、2年後には八幡基督教青年会館を建てバイブル・クラスを開設し、町民の反感を買って解職させられる。そこで1908年には京都で建築事務所を設立し、以来、学校、教会、病院など数多くの西洋建築の設計を手掛ける。

 学校建築として代表的なものには、同志社大学今出川キャンパス(京都市)の図書館(啓明館)やアーモスト館など、関西学院大学上ヶ原キャンパスの建築群(西宮市)、そして神戸女学院大学(西宮市)ではヴォーリズ建築全体が今年(2014)の8月18日「重要文化財・神戸女学院」として国の重要文化財に指定された。また、取り壊し騒動に発展した滋賀県の豊郷小学校の校舎もそのひとつである。

 一方で大正7年(1918)結核療養所・近江療養院(のち近江サナトリアム・現ヴォーリズ記念病院)を開設、大正11年(1920)にはメンソレータム(現メンターム)の近江兄弟社の前身近江セールズ社を創業、また妻・満喜子は同年に地元の未就学児童を対象にプレイグラウンドを始め、「清友園」そして近江兄弟社学園へと発展する。

 太平洋戦争が始まる昭和16年(1941)には日本国籍を取得して一柳米来留(めれる)と改名し、建築事務所も「一柳建築事務所」と改称する。翌昭和21年(1942)には夫婦ともども軽井沢に幽閉されるなどの苦労も味わうが、終戦時にはマッカーサーと近衛文麿の会談実現に奔走したと伝えられている。

 ヴォーリズは昭和39年(1964)近江八幡市の自邸(現・ヴォーリズ記念館)自室で死去、満喜子も5年後に死去してる。


以下、磐代神社案内板より

磐代神社

 当神社は、小野藩一柳家の氏神として、陣屋の構築にともない建社されたものである。旧社殿は、昭和四〇年の台風により倒壊し、現社殿は、昭和四一年に再建された。

 祭神は、一柳家の祖・伊予国の名族河野家の氏神でもあった大山祇神である。五代藩主末永は、宝暦年間(1751~63)に、一柳家の基礎を築いた一柳直末(磐代明神)とその子松千代(真栄霊神)を祖神として合祀している。

 祭日である三月二十九日は、羽柴秀吉の家臣として活躍した直末が、伊豆山中城合戦で戦死した日にあたり、旧藩時代には、藩主自ら祭祀を司り、直末の武功にあやかるべく、軍神として尊崇し、軍士出陣のときは、必ず参拝して武運長久を祈願したと伝えられている。