播磨 東渓山 安国寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①山門

イメージ 2②庭園

イメージ 3③義教首塚宝篋印塔

イメージ 4④本堂


訪問日:2009年3月

所在地:兵庫県加東市

 将軍足利義教が討たれた翌日の嘉吉元年(1441)6月25日、義教の嫡子千也茶丸(義量)を7代将軍とすることに決し、翌日室町殿に迎えている。

 

 しかし赤松討伐軍はなかなか編成されず、河合城に入った赤松満祐は足利家ゆかりの播磨安国寺で義教の法要を盛大に執り行っている。このことから安国寺に残る宝篋印塔が義教首塚として現在に伝わっている。

 実際の義教の首は満祐らによって赤松氏の本拠の播磨坂本城まで運ばれ、7月1日義教の側近であった季瓊真蘂が坂本城までやって来て首の返還を求めた。

 

 満祐はこれに応じて首を返還し、真蘂はそれを京都に持ち帰り、7月6日等持院にて義教の葬儀が執り行われた。

近くに江戸時代の新定陣屋があるはずだがこれは発見できなかった。


以下、現地案内板より

市指定文化財 安国寺 宝篋印塔

 当寺は、足利尊氏、直義が、戦没者慰霊と天下泰平を祈願して、国ごとに一寺、一塔を建立したうちの播磨国安国寺である。
 嘉吉元年(1441)赤松満祐は京都の私邸で室町幕府6代将軍義教を殺害し、将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰った。そこから足利ゆかりの当寺まで大行列で運び、播州の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んで葬ったと伝えられている。これを「嘉吉の乱」とよび、「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しい。
 首塚には凝灰岩製の宝篋印塔が築かれており、その様式、手法もこの時代に一致するものと思われる。
 塔は総高173センチ一重の反花座付基壇上に立つ。台石は各面とも輪郭の内に格狭間を、上部は反花を刻む。軸石の四面に蓮華座付月輪と金剛界の四仏の種子を刻む。笠の隅飾りは二弧で輪郭をまく。四角で構成された石塔である。

加東市