播磨 河合城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①河合城跡

イメージ 2②河合城跡

訪問日:2002年4月

所在地:兵庫県小野市

 室町幕府6代将軍義教は応永元年(1394)、3代将軍義満の3男として誕生する。8歳年長の長兄は4代将軍義持、次兄は義満の寵愛を受けた義嗣で、3か月早く生まれた同い年の異母兄である。

 応永15年(1408)3月4日、得度して義円と名乗る。同日に義嗣は従五位下に叙爵されるが、直後の5月6日に義満が急死すると兄の将軍義持と義嗣が次第に対立し、応永25年(1418)、義嗣は義持により殺害される。(享年25歳)

 一方、義円は翌応永26年(1419)延暦寺153代天台座主となり、逸材として将来を嘱望される存在であった。しかし、応永32年義持の後を継いだ一人息子の義量が19歳で急死し、義持が再び政務を見るものの、応永35年(1428)跡継ぎの指名を拒否したまま亡くなってしまう。

 将軍後継はくじ引きで選ばれることとなり、いずれも僧籍の義持の弟たち(義円・義承・義昭・永隆)の中から義円が後継者となり、正長2年(1429)義教と改名し、36歳で征夷大将軍となった。

 将軍就任後、義教は幕府権威と将軍親政の復活をめざし苛烈な行動に出る。いくつか挙げてみると、

永享7年(1435)古巣の延暦寺と抗争の末、降伏した4人の延暦寺代表の山門使節の首を刎ねる。

永享11年(1439)関東討伐(永享の乱)、降伏した鎌倉公方足利持氏一族を翌年に殺害。

嘉吉元年(1441)持氏の遺児2人の叛乱を鎮圧し(結城合戦)、2人を処刑。

同年、10歳年下の弟大覚寺門跡義昭(足利尊有)を薩摩まで追い詰めて討伐。

 その他、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏などの有力守護大名の家督継承に干渉し、意に沿わない丹後守護一色義貫や伊勢守護土岐持頼を誅殺。

 そして嘉吉元年6月24日、赤松満祐・教康父子は結城合戦の祝勝の宴と称して将軍足利義教、管領細川持之をはじめ義教お気に入りの大名たちを西洞院二条の自邸に招き酒宴を催す。そこに赤松氏の家臣たちが乱入し、真先に義教の首を刎ね、抵抗した山名煕貴も斬殺された。また、細川持春は片腕を落とされ、重傷を負った京極高数と大内持世は後日死亡した。また、公家の正親町三条実雅も重傷を負ったが、一命は取り留めた。

 管領細川持之ら大名たちは自邸に引きこもり、すぐに満祐らへの追手を出さなかった。自害覚悟で追手を待ち受けていた満祐らは、領国播磨に戻って抵抗することとして、義教の首を掲げて播磨河合城に入った。


以下、現地案内板より

河合城跡

 別名「堀殿城」とも呼ばれ、室町時代に播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。東西約四百メートル、南北約三百メートルの城域を有する東播磨屈指の大城郭でしたが、ほ場整備事業等によりその景観は失なわれています。主郭部は「源氏屋敷」とよばれ、かつてはその周囲に土塁と堀が巡っていました。さらに堀の外側には、東の郭と西の郭があり、三つの郭から構成された平城であったようです。