①石垣と土塀
②御館
③遠景(背後は館山城
訪問日:2002年5月
所在地:長崎県平戸市
オランダとの正式国交が結ばれた時にオランダ商館が平戸に設立される。寛永元年(1624)オランダは台湾島を占領し、ゼーランディア城を築きその地をタイオワンと呼び、寄港する外国船に10%の関税をかけたが、日本の商人たちはこれを拒否する。
寛永4年(1627)オランダは将軍徳川家光に交渉を求めて台湾行政長官ノイツを江戸に向かわせた。朱印船貿易商で長崎代官の末次平蔵はこれに対し、配下の浜田弥兵衛と16人の台湾先住民らとともに「高山国」からの使者と称して将軍に拝謁を求め、結果としてノイツの拝謁阻止に成功する。
寛永5年(1628)ノイツは帰国した先住民たちを全員捕えて監禁、弥兵衛の船を渡航禁止にして武器を取り上げる措置に出る。弥兵衛は抗議が受け入れられないと知るとノイツを捕え人質にする。交渉の末お互いの人質を出しあい長崎で交換することとしたが、末次は人質を牢に入れて平戸オランダ商館を閉鎖する。
オランダ領東インド総督クーンは特使ヤンセンを日本に派遣するが平戸藩3代藩主松浦隆信と末次は江戸に行くことを許さず、ゼーランディア城の明け渡しを要求する将軍の偽書を持ち帰らせた。
クーンの後任の総督となった元平戸オランダ商館長スペックスはそれを偽書と見破り、ヤンセンを再び日本に派遣する。その後の詳細は不明だが寛永7年(1630)末次は捕えられて江戸の牢獄に入れられて幕臣により斬殺される。
オランダは強硬には出ずノイツを解雇して人質に差し出し、人質のオランダ人の解放のみを要求した。平戸オランダ商館は寛永9年(1632)再開された。ノイツはこの年から寛永13年(1636)まで抑留されたが、隆信の要請を受けた老中酒井忠勝の奏上により釈放された。
幕府は鎖国後もオランダとの交易を認め、平戸のオランダ商館は寛永18年(1641)長崎出島に移転された。