肥前 平戸城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①模擬天守

イメージ 2②北虎口門•地蔵坂櫓

イメージ 3③見奏櫓

イメージ 4④石狭間

イメージ 5⑤幸橋

イメージ 6⑥遠景


訪問日:2002年5月

所在地:長崎県平戸市

 平戸松浦氏26代鎮信は龍造寺隆信に従っていたが、天正12年(1584)隆信の討死を機に独立、秀吉と友好関係を結び父とともに九州平定に参陣し、所領を安堵された。

 天正17年(1589)41歳で出家し平戸法印などと呼ばれ嫡男久信に家督を譲るが、翌年の小田原征伐にも水軍を出し、文禄・慶長の役では久信らとともに小西行長の一番隊に属して7年間で24戦無敗という抜群の戦績を残している。

 慶長4年(1599)現在の地に日之嶽城の築城を開始、翌年の関ヶ原では久信が西軍に与するが、肥前にあった鎮信は東軍につき、所領を安堵されて鎮信が初代藩主となった。家康の疑念を払拭するためか鎮信は完成間近の日之嶽城を焼いている。

 現在の平戸城は同名の4代藩主鎮信が築城を願い出て、幕府は元禄16年(1703)許可を出している。この時期に築城が許可されたのは、松浦家に対する信頼が確保されたことに基づく東シナ海警備のためとされている。

 大雨に降られてせっかくの景色はくすんでしまっていた。


以下、パンフレットより

平戸城

 松浦家26代鎮信は1599年(慶長4年)亀岡に「日の岳城」を築いた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うため「日の岳城」を焼却、平戸6万1千7百石を守った。松浦家は以来約90年間を「御館」で過ごすが、30代棟となって幕府の許可のもと、1704年「平戸城」の再築を開始、1718年完成した。この平戸城は山鹿素行の縄張によるもので、全国でも珍しい城と言える。明治4年廃城となり、昭和37年平戸市により復元された。