陸奥 福島城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①土塁

イメージ 2②土塁

イメージ 3③紅葉山公園

イメージ 4④阿武隈川


訪問日:1998年9月

所在地:福島県福島市

 はじめ大仏城、杉目城などと呼ばれた。

 伊達政宗の祖父晴宗は、奥州一の美女と呼ばれた岩城重隆の娘久保姫が結城晴綱に輿入れする行列を襲い奪ったといわれている。

 

 重隆は晴宗と戦うが敗れて、晴宗に嫁がせることを承認した。二人の子を男子のいない重隆の養子にすることを条件としたらしい。笑窪御前とも呼ばれた。

 晴宗は2歳年下の久保姫を愛し、岩城親隆、政宗の父伊達輝宗ら6人の男子と5人の女子を儲けている。久保姫は天正5年(1577)58歳の時に晴宗を亡くしてからは、出家して6男の杉目直宗と杉目城で暮らすが天正12年(1584)64歳の時に直宗に先立たれ、翌年には輝宗が殺害される。

 

 天正19年(1591)71歳の時に奥州仕置により杉目城は蒲生氏郷領となり、久保姫は城を出て孫の政宗に従い宮城郡根白石で暮らし、文禄3年(1594)74歳で亡くなった。

 久保姫の後に杉目城に入った蒲生氏郷の客将木村吉清は城の名を福島城と改めた。現在は福島県庁となり、土塁がひっそりと、しかし明瞭に残っている。


以下、現地案内板より

大佛城跡

この敷地一帯は、福島城の二の丸でした。
本丸は現在の知事公館から東方に位置したとされています。福島城が杉妻城また大佛城と呼ばれたのは、杉妻大佛を安置した杉妻寺があったためといわれています。弘安6年(1283)の石造宝塔や延慶3年(1310)の板碑が出土したのは、これを裏付けるものといえましょう。応永20年(1413)伊達持宗がこの城によって関東公方の軍と戦った大佛城合戦や隠居した伊達晴宗が天正5年(1577)にこの城で死去していることは、伊達氏の重要な城だったことを示しています。江戸初期には、蒲生、上杉氏の支城とされましたが、ついで本多氏15万石、堀田氏10万石、板倉氏3万石の居城となりました。板倉時代の福島城は、郭内面積251,050屬海里Δ阻楷13,150屐二の丸54,590屐∋阿隆55,250屐△筏載されています。
明治2年7月県北地方だけの小さな福島県成立以後、県庁が置かれるようになりました。

福島県