①二重堀切
②東郭
③大門跡
④西郭
⑤井戸跡
⑥石積み跡
訪問日:2014年2月
所在地:大阪府貝塚市
約1年前の2012年11月にも千石堀城などとともに攻城したが、トラブル発生により東郭まで来たところで無念の撤退をしていた。なかなか難攻の城で今回も苦労したが何とか西郭まで攻略した。
天文4年(1535)松浦肥前守(守)が野田山城として築城、管領細川晴元や和泉守護細川元常の将だったが、晴元と三好長慶が対立すると三好方につき、根来寺勢力とも敵対した。
松浦氏の出自はわからないが、一字名前を持つこと、そして何より肥前守を自称していることから肥前の松浦(まつら)氏との関係が推測できる。
保延6年(1140)に高野山を追放され根来寺を建立した覚鑁(興教大師)が肥前国藤津庄の生まれ(父は伊佐氏)であり、彼と行動を共にしていた人物のひとりが松浦氏だったとは考えられないだろうか。
根福寺城は三好家との戦いでは敵を撃退したが、秀吉の紀州征伐では戦場になることなく秀吉方に接収されたようだ。鉄砲主体の防御にはこの城は向いていなかったのだろうか。
以下、現地案内板より
根福寺城と殿の墓
別名、野田山城とも呼ばれる。天文年間(1532~1555)に、この地の豪族である松浦肥前守守によって築城され、後に根福寺城と呼ばれる寺院を中心として、山全体に城郭が築かれていた。現在も、大門跡や土塁、竪堀等が残り、中世山城の名残をとどめている。道路沿いの共同墓地入口には、五輪塔をうきぼりにした墓碑がある。城主の墓とされ、「殿の墓」と呼ばれている。
平成5年3月 貝塚市教育委員会