陸奥 猪苗代城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①枡形門跡

イメージ 2②櫓門跡

イメージ 3③本丸虎口

イメージ 4④本丸

イメージ 5⑤空堀

イメージ 6⑥空堀


訪問日:1998年9月

所在地:福島県耶麻郡猪苗代町

 猪苗代氏最後の城主盛胤の父盛国は後妻の産んだ子宗国を愛し、天正16年(1588)盛胤が主家蘆名氏の黒川城に出仕した隙に猪苗代城を乗っ取る。盛胤は奪還を試みるが成功しなかった。

 伊達政宗はその後妻に近づき、盛国に内応を呼びかける。翌年これに応じた盛国は伊達氏の軍勢を猪苗代城に招き入れた。

 その後の摺上原合戦で蘆名氏は壊滅的な敗北を喫し、戦国大名としての蘆名氏は滅ぶ。盛国は愛息宗国を政宗への人質として提出するが、やがて伊達氏の準一門に列せられ5000石を与えられている。

 
以下、現地案内板より

猪苗代町指定重要文化財 史跡  亀ヶ城跡   平成10年1月7日指定

 三浦氏の一族である佐原義連は、「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。その子盛連には六男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。経連は、磐梯山南麓の後嶺の地に建久2年(1191)亀ヶ城を築いたと伝えられています。
 以後、14代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正17年(1589)「摺上原の戦い」で蘆名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。
 しかし亀ヶ城は、江戸初期に出された。一国一城令にも破却されず、近世を通して城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要としてのこされた名城です。

平成10年3月27日   猪苗代町教育委員会