陸奥 鴫山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大門跡

イメージ 2②大門跡

イメージ 3③大門跡

イメージ 4④全景


訪問日:1998年9月

所在地:福島県南会津郡南会津町(旧田島町)

 天正18年(1590)の奥州仕置により蒲生氏郷が42万石で会津に入国すると、鴫山城には家臣で妹婿の小倉行春が入る。当初6300石だったが、蒲生家が92万石に加増されると行春も1万石に加増された。

 文禄4年(1595)氏郷が40歳で亡くなり、嫡男秀行(母は信長の次女)が13歳で相続し、徳川家康の3女振姫(16)と婚約、慶長3年(1598)に輿入れするが、秀吉の命により、その年に宇都宮城18万石に減封され、行春も鴫山城を去る。

 鴫山城には上杉景勝の家臣で直江兼続の実弟大国実頼が2万1千石で入ったが、関ヶ原合戦の結果秀行が会津に60万石で復帰、行春も6千石で復帰したが、慶長14年(1609)蒲生家中で騒動が起きると蒲生家を去り浪人する。

 その後、行春は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣でも出陣し、夏の陣では明石全登とともに家康本陣に突撃するが、やがて戦場を離脱してその後の動向は不明である。

 長沼氏時代の遺構が残る山上の愛宕神社や石積みの残る主水曲輪には行っていない。今思えばもったいないことだ。


以下、現地案内板より

福島県指定史跡 鴫山城跡  昭和57年3月30日指定

所在地 南会津郡田島町大字田島字根小屋、字愛宕山地内
所有者 細井新次郎ほか

 鴫山城は、愛宕山の頂上から北斜面と麓にかけて構築された根小屋式の山城である。
 築城の時期は、南北朝から室町期にまず長沼氏の山城として築かれ、ついで戦国末期までに長沼氏の手で根小屋に一定の構築がなされた。しかし、基本的には蒲生、上杉の両氏、とくに上杉により大規模な築営が行なわれて完成をみたと推定される。
 城の構えは、山頂から山腹にかけて籠城を目的として構えられた当初の鴫山城で「詰の城」にあたる山城、麓にかけての「内城」あるいは「内郭」にあたる城主居館(本丸に相当)、麓の「根小屋」あるいは「外郭」にあたる侍屋敷の三つの部分によって構成されている。
 全体的に遺構の保存は良好であり、戦国期から近世城郭完成期への過渡的な山城形態を示すきわめて貴重な史跡である。

福島県教育委員会