近江 仁正寺陣屋(西大路陣屋) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①武家屋敷街

イメージ 2②武家屋敷街

訪問日:2007年8月

所在地:滋賀県蒲生郡日野町

 蒲生氏郷が天正12年(1584)伊勢松ヶ島12万石に移封されると、中野城には田中吉政や長束正家、古田重勝が入ったが、関ヶ原以後廃城となっていた。

 美濃出身の市橋長勝は信長・秀吉に仕え、関ヶ原では東軍につき、戦後44歳で美濃今尾城1万石の大名となった。54歳の慶長15年(1610)には伯耆矢橋で2万3千石となり、大坂の陣の功績で元和2年(1616)60歳で越後三条5万石と遅咲きながらも順調に出世した。

 

 外様ではあるが、徳川家康の信頼が厚かったようでその死去の直前には堀直寄や松倉重政らとともに枕元に呼ばれ、後事を託された。

 元和6年に(1620)江戸で死去、嗣子が無く改易の危機を迎えたが、家康の信任が厚かったことと晩年の老中に対するロビー活動が功を奏して甥の市橋長政が近江仁正寺2万石に減封されたものの相続が認められた。

 以後、市橋氏が代々続き、幕末の文久2年(1862)に藩の名を仁正寺(にしょうじ)から西大路に変更している。


以下、現地案内板より

仁正寺藩武家屋敷街

幕末の文久2年(1862)仁正寺を西大路に改称した1万7千石西大路藩の藩士屋敷は、この道路を中心に建ち並び約70軒ほどが両側に軒を接していた。藩主市橋公の邸宅および重臣の屋敷は主として南側道路付近にあり、ここは中・下級武士の住居地であり、連なる各家々の面影に武家屋敷の名残りを今にとどめている。明治維新後は東京移住などによって多くの武家屋敷が売却され、現在ではその一部が残される状態となった。

日野観光協会・西大路公民館