近江 日野城(音羽城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②虎口

イメージ 3③虎口土塁

イメージ 4④土塁

イメージ 5⑤曲輪

イメージ 6⑥空堀


訪問日:2008年8月

所在地:滋賀県蒲生郡日野町

 近江蒲生氏は藤原秀郷を祖とし、その6代の子孫惟俊が近江蒲生郡を賜り蒲生氏を名乗ったらしい。音羽城を築いた14代貞秀は応仁の乱では東軍方であった。

 

 六角高頼が二度の将軍親征を受けながら守護に返り咲くと、事実上その組下に入り、六角氏の戦国大名化に貢献した。

 

 文亀2年、伊庭貞隆と争った高頼が次々と城を失い、本拠観音寺城も放棄して音羽城に入ると、貞隆らに城を攻撃されるが撃退している。

 貞秀は嫡男秀行に家督を譲るが先立たれてしまい、その子の嫡孫秀紀を後継に据えるが、貞秀死後に次男の高郷と争って敗れ、高郷の子定秀に家督を譲らされた上、毒殺されてしまう。

 その定秀が中野城を築いて、音羽城は廃城となる。この定秀の子が賢秀で、孫が氏郷である。


以下、現地案内板より

音羽城址

中世の日野地方の領主蒲生貞秀によって、応仁の大乱期に築城された要塞堅固な典型的山岳城である。背後に宝殿ヶ岳を控え前面に急峻な崖地と日野川を配したこの城では、明応5年(1496)と文亀3年(1503)の激しい合戦が二度怒り、いずれも城兵の蒲生氏が勝つが、大永2年(1522)に起こった蒲生氏同族間の合戦で音羽城は落城し、50数年の運命と共に城は廃城となった。城址内に数々の遺蹟が散在する。

日野観光協会・西大路公民館