河内 高屋城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

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①②③本丸跡の高屋築山古墳(安閑天皇陵)

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④二の丸跡城山姥不動明王

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⑤案内板


訪問日:2007年8月

所在地:大阪府羽曳野市

 

三好長慶④

 現在は立ち入ることのできない安閑天皇陵とされているところに本丸を構えた河内守護畠山氏の本拠地である。

 細川晴元に反逆した木沢長政に対して、河内若江城の守護代遊佐長教は長政が擁立した河内半国の守護畠山弥九郎を追放し、その兄の稙長を復帰させるとともに三好長慶に味方すると表明した。


 これに対し、長政は稙長の高屋城を攻撃するが、長教と援軍の長慶と三好政長に大平寺で戦って敗れ、長政は討死、長慶は父の敵のひとり木沢長政を討ち果たした。天文11年(1542)3月、長慶21歳の時であった。

 その後、細川高国の養子氏綱が晴元排除に挙兵、長教や稙長の跡を継いだ政国そして将軍義晴までも同調する中、長慶は晴元の命に従い、天文16年舎利寺の戦いで長教らを破り、逃げ込んだ高屋城を翌年にかけ8カ月間包囲するが和睦し、長慶は長教の娘を後室とした(長慶27歳) 

 さらに時が流れて永禄元年(1558)になると新たに守護代となった安見宗房が守護の畠山高政を紀伊に追放するという事件が起きる。

 

 長慶は翌年、高屋城を攻略し、高政を高屋城に復帰させ、新たに湯川直光を守護代につけるが、高政はさらにその翌年なぜか直光を罷免して宗房を復帰させる。

 

 長慶は再度高屋城を攻略し、弟義賢を高屋城主とする。このあたりが長慶の全盛期だが、やがて久米田の戦い、教興寺の戦いを経て三好家は衰退していく。