①環濠
②鉄砲鍛冶屋敷
③山口家住宅
④本願寺堺別院
⑤利休屋敷跡
⑥幕末文久3年地図
訪問日:2010年8月
所在地:大阪府堺市
三好長慶⑤
話を天文11年(1542)に戻す。大平寺の戦いで木沢長政が敗死した9カ月後、細川高国のいとこで養子の細川氏綱が高国の旧臣たちを集めて蜂起。
翌天文11年(1543)7月泉州堺を攻撃するが、和泉上半国守護細川元常の家臣、松浦肥前守・日根野景盛に敗れる。
そして天文15年になると高屋城の河内守護畠山政国や守護代遊佐長教が氏綱を援助するようになり、さらに将軍義晴までもが細川晴元排除のために連携する。
長慶は晴元の命で堺に入るが、氏綱・長教に筒井氏が加わり、堺を包囲される。不利を悟った長慶は堺の会合衆に斡旋を依頼し、氏綱と和睦している。
以下、現地案内板より
「内川土居川観濠クルージング」船着場説明板について
”堺は東洋のベニスの如し”、これはイエズス会宣教師ガスパル・ビレラが本国に送った報告書の一部ですが、ここには、国際貿易都市という評価のほか、自由都市としての堺という意味合いがこめられています。
ビレラは、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり、この町はベニスのごとく執政官に依りて治めらる。」と記しています。この執政官に相当するのが会合衆(かいごうしゅう)と呼ばれる豪商たちで、市政の運営や訴訟を裁くなどの権限をもってまちを治めていたのです。
さらに、ビレラがもうひとつ強調していたのが環濠の存在です。濠は運河として、また、防衛を目的としてつくられ利用されていました。ビレラはこうした様子を「町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また、他の側の深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」とも記しています。
ビレラの見た濠は、豊臣秀吉支配の時代にほとんどが埋められます。しかし、江戸初期、徳川幕府の手により町並整備が行われるなかで、ひとまわり大きな範囲で再度掘削されて近代に至ります。このように500年以上にわたって堺の風景を映しつづけてきた環濠は、昭和30年代に北側と東側が埋め立てられ道路と公園になり、かつてのおもかげをとどめているのは、ザビエル公園あたりを流れる内川部分と、南半町あたりに残る土居川部分のみとなっています。
堺のまちを囲んでいた環濠は、戦国の世から近代にいたるまで、海に開かれた都市堺における平和と繁栄の象徴として存在してきました。そして今、新たな憩いの場として再生しつつあります。