突然大爆発が起きたような轟音が鳴り響き、空気と地面が振動した。
地震だろうか?それにしては・・?と思った瞬間、島原の空から立ちのぼってきた灰色の雲。
墨を混ぜたような大きなきのこ雲はたちまち上空を覆い、手を広げるように拡大していった。
「雲仙だ・・・・」
ニュースで見た闇夜に紅く染まる雲仙の火砕流を思い出した。大丈夫だろうか?
高校総体を終えて学校に戻ろうとしている暢気な高校生たちが眺める、夕方のまだ明るい青空と対比して島原を覆い尽くす灰色の空・・・それが1991年6月3日の思い出。
その夜、テレビのニュースではじめてあの灰色の空の下で起きた大火砕流の悲劇を知った。
橘湾を震源とした地震はそう珍しいものでもなかった。島原大変肥後迷惑なんて言葉を昔話のようにして聞いていた。熊本から見る海の向こうの目印はやはり雲仙岳だった。
前年の11月に山頂から噴煙が上がるすがたを見て、阿蘇山や桜島といっしょで雲仙も活火山だったんだと思った。それからは幾度となく火砕流が流れ、島原の豊かな大地に灰を降らせる。
1996年に噴火活動の終息宣言が発表されるまで、どれ程の苦難があっただろうか。
「大野木場砂防みらい館」より雲仙岳を見上げてみる。
「定点」といわれる土石流を撮影するポイントだったところ・・・つまり土石流の流れるミチの対岸にあり、6月3日の大火砕流によって被害を受けた「旧大野木場小学校」。
今でも校舎は残されており、校庭の遊具の横には、卒業生が植樹した銀杏の木がそびえている。この樹も火砕流の熱風によって焼けてしまったように見えたが、今では空高くまで枝葉を伸ばしている。
6月3日の火砕流に続き、9月15日の大規模火砕流において校舎が焼失した。
(今は別地に移転していて、旧校舎は当時の資料として保存してある)
その横には、「大野木場監視所」があって、監視カメラや地震計、雨量等の観測データを管理されている。展望台もあるので、砂防堰堤の全体像を眺めることが可能。
当時の被害状況や復興の様子をパネルや映像にて紹介してあり、無人機における砂防堰堤の工事技術等も紹介してあるので、とても興味深い。
注)土石流とは、岩石や砂、倒された樹木や火山灰などが水と一緒に流れてくるもの。火砕流とは高温の火山灰や岩石火山ガス水蒸気等が一体となって流れ降りてくるもの。高温かつ速さが時速数十キロから数百キロで流れるので、人や車等では避難する事が不可能である。
旧大野木場小学校から望む空
聳え立つようにして平成新山(溶岩ドーム)が岩肌を見せる。自然の猛威をまざまざと見せつける場所。
そこからさらに川下にある「ふかえ桜パーク」というところまで火砕流が到達している。(1993年7月19日の火砕流。山頂より5.6km流下した)
「も~さ、最悪よ」避難所で生活をしていた同級生は優しい笑顔でそう言った。「暑かし灰のザラザラするもん・・でもさ・・・鹿児島の人ってこいが毎日降ってきよるとよね?大変かバイね」「うんさね・・箒ではわいても取れんもんね」インターネットもない時代、テレビや本等で手に入れる以外は自分達の目の前に起きる出来事が全ての時代。
湾岸戦争も、東西の戦争も、ソ連の崩壊も、バブルの崩壊も、社会の混乱よりも小さくとも自分達の生活が喫緊の課題であった。それでも、同じように誰かも大変な思いをしているのではないかと思いやってみる。
あれから・・・35年。実家の荷物を片付けていたら、当時撮った写真が出てきた。劣化しているので色合いも薄くあるが、深江から撮った土石流が下りてくる瞬間と、R251から水無川(当時)を撮った写真。
この一帯は、土石流で家がほぼ埋まっていた。今は、「土石流被災家屋保存公園」として保存されてある。
「またいつか」それはいつでも起き得るものかも知れない。
あの時の災害を忘れないで、と此の地には当時の跡として残るものが大切に保存してある。
活火山の恩恵と猛威とが混在するこの街の風景は唯一無二のものだから。



