百年の時とて地続きの世界なり② | うろんころんしてみる隊

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うろんころん・・・って何かって?九州弁でして、標準語に解釈するとウロウロと「散策している」「徘徊している」・・・どちらでしょうかね?
傍から見ると限りなく後者に近いわたくしの、人生の糧にもならないつぶやきを書き留めて行こうと思います。

「わし共(どま)、西郷戦争ちゅうぞ。十年戦争ともな。一の谷の熊谷さんと敦盛さんの戦(いくさ)は昔話にきいとったが、実地に見たのは西郷戦争が初めてじゃったげな。それからちゅうもん、ひっつけひっつけ戦さがあって、日清・日露・満州事変から今度(こんだ)の戦争ー。西郷戦争は、思えば世の中の展(ひら)くる始めになったなあ。わしゃ、西郷戦争の年、親達が逃げとった山の穴でうまれたげなばい。」(「西南役伝説」~序章 深川~より )

 

 

水俣市深川村の、字も知らぬ八十を超えた百姓爺さんの語り口から始まるこの話は、百年近く前の戦を、まるで昨日にでも見てきたかのように鮮やかに語られる。

親の話ではこの辺の百姓達は「上の者」に命じられるまま「官軍」に味方する。そして、刀どころか大砲や鉄砲弾のおどろおどろしい音をたてる中に、官と賊の戦うさまを目に焼き付ける。追い詰められた賊軍が、山の高嶺から何十人と墜死する。戦の終わった後にその幽霊があんまりに出てきて困ったので、村人はその骨を拾って寄せ墓にして弔ったそうだ。

 

この、兵隊さんの幽霊が出る話は他の話にも何度か出てきて、海の沖では、官と賊の亡霊が迷って出ては「けんつきでっぽう」「そうらまめえ」と泣きながら喧嘩をするとげな。また山のなかにゃ、大砲の鳴り合った後には西郷衆のまだ若い稚児さんが斃れておったそう。戦後に墓を建ててやれども、夜な夜な火の玉が出てくるのを村人が見て、お寺の和尚さんに「お経をあげてくいやんせ」と頼んだと。

地べたに斃れる若い者を目にした媼は、士族の親御さんなこんな年端の稚児さんを戦に出すのはどんな気持ちだったろうかと慮りながらも、近頃は火の玉もすっぱり出なくなったのだと静かに話す。

 

ところで、何故人々は十年戦争というのか?西南の役が、明治10年(1877年)に起こったためである。

 

「西郷さんのいくさ」っちゅう侍さんたちの始めたものに、日々生きることに懸命な百姓達が急に巻き込まれていくことになる。

兵隊さんの過ぎるのを遠巻きに眺める者、戸長からいくさの加勢をせろと命じられたもののいくさを知らぬ者の戸惑う姿、官軍の運びを手伝った者、薩摩の者と他所の言葉まじりの官軍との戦いに、男も女も降りかかる火の粉を必死に振り払うようでありながらも、強かにも、兵隊相手に柿やら何やらを売って生業をこさえてみたりする。

そしてまた過ぎさった後には、うち斃れたその亡骸を弔うのである。

 

一世紀近く前、まだ・・・耶蘇の踏み絵が行われていて、男は髷を結うて、女も十九で眉毛を立てとる者は嫁きおくれと云われる。それから・・・十年の役、日清・日露・満州にアメリカとの戦のおわったと思ったら、若いもんは働く為に島をはなれる。

その百年の目まぐるしい変わりようの中で、男も女も生きてきた。

 

十六で嫁いだという、百六になる媼の嫁入り着物は年月の間にすっかり煤(すす)色に変わった布の塊となっていたが、それを孫のおむつにせろと云われてもできないのだと、老いたその娘が答える。

 

涌蓋山の麓にあるうすねぎりの里にて起きた、十年の役のいくさ道にも、肥後の先の先までに、若い衆の血と命が散っていったものだろう。ここにもかしこにも、人の死が残されるのである。

 

 

ああ・・・読み書きも知らないこの人達の開く、歴史の絵巻物語の何と深く美しいものか。

滑稽も悲愴も徳も僻みも全て全て・・・人というこころの内の何ともいえぬ天然の輝きよ。

 

ああ・・・人の生は、いかにもいじらしく、人の死は、いかにも心をかき乱すものか。

そして、生死のどちらにも高低のつけられない命の尊厳よ。

 

学校の歴史で学んだその一文の奥には、多くの市井の民が一途に生きていたのだから。