お恥ずかしい限りだが、
実はいま、足の指(小指)を怪我している。

端的に言えば、爪を剥がしてしまった。



この半年で二回目。
最近、家の中がゴチャつき、障害物に足を激突させてしまい…



とは言っても、この年でトレーニングを休むと一気に衰え、元に戻すのに数倍の時間を費やすので、休むわけにいかず、
ムチ打ってトレーニングは続ける。



私の場合、趣味や楽しみではなく、仕事なので、
そこは致し方なく。




…で、指に負担が掛からないようにと配慮すると、
どうしても水泳の比率が高くなる。



だが…



特に、平泳ぎのキックは、
思いの外、指に負荷が掛かることが初めて分かった。
固定してある爪が剥がれる方向に力が加わる。


仕方ないから、脚を使わず、プルブイを使って、上半身主体に泳ぐことにする。
これはこれで、上半身の筋トレになるので、怪我の巧妙か…なんて無理やりポジティブに捉らえたりして。




若干、話はかわり、
特にアスリートにおいて、
たかが足首の捻挫や、指一本の怪我と言えども、
実は身体に大きな影響を及ぼす。



試しに、足の親指一本、テーピングで固定して一週間過ごしてみると良い。



歩く際のバランスが著しく変わり、
膝や腰に妙な負担が掛かるのが分かる。



基本的に、人体は左右がほぼ対称に動く前提に構成されているので、
どこかの動きが制限されるということは、
自動車で謂えば四輪が違う方向に向いているようなもの。
当然、どこかに歪みが生ずる。



もちろん、あまり過保護になるのは考えものだが、
ほんの一つの関節・指の動きに異常が生ずるだけでも、全身に影響を及ぼすことは、当たり前に起こり得る。



アスリートは、そういう細かい点にも配慮する必要があるのである。



特に、「足・脚」の故障は、
たとえ軽症でも注意が必要である。


先週から、運動生理学や解剖学、栄養学や救急処置まで、
全般に渡る講座が始まり、担当している。



今はパーソナルトレーナーの養成講座も同時進行で行っており、
来月からは別のトレーナー向けの専門講座が始まる。



まだまだ人に教えるタマでは無いのだが、
年齢を重ねると、このような役回りも致し方ない。



さて、話を本題に戻す。







この講座はエアロビクスのインストラクターを目指し、資格認定を取得することを目的とした講座で、
およそ二ヶ月半続く。



受講されている方もこのサイトを見ているかも知れず、
誤解を招くかも知れないのだが、
ホントは私、このように消化すべきカリキュラムがガチッと決まっている講座は苦手なんです…



いや、出来ない、ということではなく…
(事実、立派にやってますし…)



わたし、どちらかと言うと、セミナーや講義でも、
どちらかと言うと「ライブ感覚」を重視する方で、
大枠だけ決めておいて、あとは話しの展開や流れで、
「そうそう、これに関連して…」
ってな具合いで話を飽きさせないように広げたり、
その時の聴衆(受講者)の表情なんかにより、展開変えたり…



というのが得意な方なんで…
いわば、「寄席感覚」。


専門学校でも講義を持っているが、
結果的に最終的にツジツマが合ってればいい、と言う風に、何となく学校側に認めさせちゃったりして…



検定試験に向けて、となると、
まずはテキストの範囲が膨大に広いので、脱線なんてしてたら消化すべき範囲が終わらない。
順番を無視すると、話してない「穴」みたいのが発生して、受講者に迷惑かかるし。
でも、「この話の流れで、関連するこの話すると分かりやすいんだけど…」
というのが浮かんでも、テキスト的な流れを崩すと、自分でワケが分からなくなる…




…とは言いながら…



基本的に自由気ままにやってきた人生なんで、
たまにはこんな感じで、「型」にはまるのも良い経験かなぁ~、なんて前向きに捉らえたり。


いい年こいて、一から十まで自由気ままというのも、どーかとも思うし。


こーやって、
たまには「これを、こういう手順でやれ」と決められるのも悪くないかもな…



…ていうか、
こういうのを、何だかんだ理屈こねながら、逃げて来たから組織に馴染まなかったんですが。



う~ん



輪廻は廻る、糸車……ってか。



…ちゃんと仕事しろよな、おっさん。


ヤンキースの松井秀喜選手が、最近は打撃が安定して来ているようで、一安心といった感じ。


だが、野球選手としての彼の素晴らしさは、実はむしろ守備にあるような気がする。



野球に詳しい人はご存知と思うが、
外野手は自分のところに打球が飛んだ時だけが仕事なのではなく、
「バックアップ」という重要な仕事がある。


つまり、内野ゴロなどで内野間でボールがやり取りされたり、
ダブルプレーやキャッチャーから二塁への送球など、常に悪送球やエラーなどの危険がつきまとう。


そのため、必ず送球が行われるラインの延長線上に回り込み、万が一に備える「バックアップ」が外野手の重要な仕事なのである。


私も全てのメジャーリーグ中継を見ているわけではないので何とも言えないが、
ヒイキ目、という意味ではなく、明らかに松井秀喜選手のバックアップに関わる運動量は多い。


送球が行われる受け手側の背後には、
ほとんどど言って良いほど松井選手が走り込んでいる。
明らかに他の外野手より多いと思われる。


彼はそれに対し、あるインタビューで、
「仕事だから当然」といった主旨のコメントを残している。



私は最近、年のせいか、いわゆる「無駄に終わる可能性があっても、責任を果たすべく、身を粉にし一心不乱に取り組む人」に、
思わず涙することがある。
アスリートでも、ドラマや映画でも。



それが出来るのは、損得などの「理屈」で考えているのではなく、
いくつかの挫折や「痛い目」を通して、
「それがやらなければならない自分の責任」ということが心底から湧き出た結果であり、
私が思わず涙するのは、そこには様々な経緯があったと推察できるからである。



その大部分は徒労に終わる。
いや、むしろ徒労に終わった方が、チームや組織の為には良いのだ。



これも推察だが、
ニューヨークのファンやチームメイト、
指揮官のトーリ監督から絶大な信頼を得ているのは、恐らく松井秀喜選手のそのような姿勢ではなかろうか。
言ってみれば、「男気」。
いや、これでは女性に失礼なので、「心意気」とするべきか。



私は、「心意気」とか「意気に感ず」という感覚が好きである。


仕事も、
もちろん綺麗事ばかりは言ってられないが、
やはり最後は「心意気」で仕事をしたいのである。



これからも、
「心意気」を感じる人と出会いたいし、
「意気に感じ」て仕事をしたいものだ。


また、自分も常に、
損得勘定抜きで、
「責任を果たす」「一心不乱な」仕事人でいたいと思うのである。



松井秀喜選手のように。


一応、白状してしまうと、
最近、水泳に力を入れている。
今風に云えば「ハマっている」といったところか。



元々、泳げないというほどでもないが、
水泳愛好者からすると、「それって泳げる、ってレベル…?」
と云われることは必至のレベルだったこともあり、
有酸素運動の一環として、出来るだけプールに行くようにしたら、何だが面白くなってしまって…



元々が下手くそだったから尚更だが、
身体運動的に、自分なりに色々工夫して、
あれこれ試行錯誤しながら変化を実感するのが、この上ない快感である。


教わるのが常套手段なのだろうが、
敢えて指導を受けず、理論的に思考しながら実験→検証のプロセスを踏んで行けるのが、大変楽しい。


上級者からすれば当たり前の事を、
自分の中の実験で導き出す過程は、レベルは低くとも、
トレーナーの仕事としても相通ずるところもあり、
色々な意味で脳に刺激が行くようである。



また、水泳の良いところは、
「道具がコンパクト」であること。


水着とキャップとゴーグルの三点セットでOK。
ジムでのトレーニングだと、これに上下の着替えに、一番かさばるシューズが必要。
これは非常に便利である。




お陰で、仕事の都合で一時間もすき間があればいつでも泳げるよう、
常に三点セットを持ち歩く始末である。
シューズまでは持ち歩けないから、大変助かる。


バタ足のメカニズム、平泳ぎのキックの効率化、
推進力を邪魔しない姿勢保持のポイント、などなど…


特に、私が重点を置いているのが、
「いかに美しく泳ぐか」。



私は今まで、様々な武道やスポーツをやってきたが、
基本的に常に形にこだわってきた。
美しい形には合理性があり、
それを突き詰めれば結果的に「速さ」や「強さ」に繋がるという理念があるからである。



もっとも、水泳において大会などに出るつもりも毛頭ないので、
キレイに泳げた方がオネェチャンにモテるかな…?
と、思いきり不純な動機で…





また、敢えて指導を受けないのが、面白い。
後で教わって、自分の考えと一致していると、これがまた快感で、酒のつまみになる。



トレーナーと名のつく商売の人は、
水泳でなくとも、
何かしら、身体感覚とパフォーマンスが比較的、直結するようなスポーツや武道なりをやった方が良い、と改めて実感。



こういう事が快感に感じるようになれば、
トレーナー、という枠に留まらず、パフォーマンスを創造する担い手(名前は色々あるでしょうが)になれる可能性大、ですかな。



今度、一緒に泳ぎません?



ビキニのオネェチャン限定。



文句あんのか~、コラーっ。


自分では永遠の若手、永遠の初心者(自称)を自負し、
必要以上に意識として「ご立派」にならぬよう努めてきたつもりだが、
自分はそのつもりでも、周りは自分が思っている以上に、私を「上」に見ている事に、改めて最近、気付いた。



例えば頼み事などで、
自分は軽い気持ちで言ったつもりでも、
先方は私が意図する以上に気を遣ってくれて、本来のルールでは認められない事まで呑んで下さったりする。


だが、私が頼んだ人がその事で後で叱られたり、私が知らないところで被害を被ることがある…



自分がいくら否定しようが、
やはり周囲の私への見方は、自分の意識を上回るところにあるのかも知れない。


謙虚に、とか、実るほど頭を垂れて、と言うのは、
口で言う以上に難しいことを実感。



出来るだけアホっぽい話したり、エロ話して、
「ただのスケベおやじ」をアピールしているが、
所詮、限界があることも思い知らされる。


歳をとる、と言うことは、こういうことか…


随分前に、
アスリートのパフォーマンスを考える場合、
「安定した状態」と「不安定な状態」の、
わずかな境目のところに真の「パフォーマンスが高い安定した状態」があると書いた。


言い換えると、
倒れてはならないが、一見安定しているように見えるのは、固まっていり状態なので、効率の良い動きに繋がりにくい、ていうことで、
言わば「倒れる寸前」。
果物で言うと「腐る寸前」。
ジャッキーチェンの映画で言えば「酔拳」の中にこそ極意がある、
ということになる。



サラリーマンの聖地、「新橋」についてだが、
私も仕事で頻繁に訪れるが、
あれだけ会社に対して鬱積したものが渦巻く街で、
新宿や池袋とは明らかに違いところ。



それは、酔っ払って、クダを巻いて、
ドーしよーもない奴が意外にもいないことである。
路上で寝入るような輩は、まず見かけない。
(少ない)




新宿や池袋、ヘタをすると赤坂あたりでも、
路上で寝込んでいるサラリーマン風の男を目にすることがある。




そう、新橋はサラリーマンの聖地と言われながら、
いかにも不満が鬱積していそうだが、
実はそこまで崩れていない。
かと言って、千鳥足のオヤジたちはそこら辺に溢れている。



考えようによっては、
まさに「安定と不安定の境目」。
つまり、潜在的にはパフォーマンスが高い街なのかも知れない、
な~んて思ってしまうのである。


あくまで、アタシの個人的理論による見解であるが…


科学的には証明しようがないですな。



でも、サラリーマンの不満が渦巻く街と認識されている場所が、
実は潜在的パフォーマンスが高い街だとしたら、
結構、面白い話だと思いまして…
今日でパーソナルトレーナーの育成コースが終了。


内容については毎回反省ばかりで、
もっと上手く、もっとスキルアップ出来たのではないか?、と、
悔やむことばかり。

自分の中だけの問題だが、
皆が稼げて初めて成功となる。



毎度思うことだが、
教育にゴールはないな~とつくづく思う。




それはそれとして話は変わり…




先日、あるフィットネスクラブに勤めている若者と話す機会があった。



私
「少ないスタッフで多くのお客様に対応するの、大変だろ~」


「そーですね。まあ出来る限りのことを頑張ってやってます。」



私
「ところで、たくさんのお客様を少ないスタッフで接客指導するわけだけど、
当然、一度に接客できないよな?
自分がどんな順序でお客様に接触しているか、意識したことある?


「え…?
やっぱり不慣れに見える人ですかね~」


私
「不慣れに見える人が複数いたら?」



「う~ん…(かなり考えて)
正直言って、何となく話掛けやすそうに見える人ですかね…」



私
「うん、それでその次は?」



「えーっ?その次~?…
自分がたまたま最初に接客して、顔見知りって言うか…」



私
「話掛けやすい人?」



「そうですね…」



私
「じゃあ、たまたま接点が無くて、
それほど不慣れに見えなくて、
声掛けにくそうなお客様は、必然的に接する機会がない、ってこと?」


「…そー…なりますかね…」




フィットネスクラブに勤めた若者には、
必ず問い掛ける質問である。
一見、意地悪に聞こえるが…


肝心なことは、
自分が無意識でやっていることが、
実は自分なりにある種の法則がある、ということである。


その上、大抵の場合は、
声を掛けやすい人は多くのスタッフにとって声を掛けやすい存在で、
接客上かなり穴が出来やすい。
つまり、声を掛けられないお客様は、ほぼ永遠に声を掛けられない。
かくして、そういう人が退会していくことになる。




飲食店では、必ず全員が何かしらのオーダーをするし、
エステなどではマンツーマンだから、スタッフが接しないことは有り得ない。


つまり、フィットネスクラブでは同じ金額を払っているにも拘わらず、
サービスに不均衡が生じているのである。



また、
フィットネスクラブに通っている方は想像が出来ると思うが、
実はスタッフがお客様と接している時間は、思いの外、少ない。


恐らく、一時間のうち、平均すると10分以内であろう。



そうなれば、普段声を掛けていない、
「声を掛けにくい」人にも行けるはずだ。


何故行かないかと言えば、
単に「行かない」だけ。


大義名分としては
「あの人は声を掛けてほしくなさそうで、黙々てトレーニングしたそうな人だから」
ということになるが、
それはほとんどの場合、「言い訳」。


これでは生産性は上がらない。


ほとんどのフィットネスクラブが、ここの認識が甘い。



この問題の解決は、
業務マニュアルの整備と徹底もあるが、
現場リーダーの指導手腕に懸かってくる。


リアルタイムでの指示、教育に勝るものはない。



現場も生きているし、
また研修・教育も生きた中で行われるべき、というのが私の持論である。


だが何よりもまず、
自分の「無意識」の部分には何らかの「意図」があり、
それがどのような論理構成でなされているかを「意識化」することである。



これは、自らの行動変革を狙う場合、
共通した考え方であると思われる。
野球の桑田投手が、幾つものアクシデントや年齢の壁を乗り越え、
見事にメジャー昇格を果たした。



こういうニュースを聞くと、世間の反応は大きく分けて二つ。

「感動した~頑張って欲しい~」

というオーソドックスな反応と、

「ま~興味ないけど良かったんじゃない?彼がハッピーなら。」

と冷めた反応。



もちろん、所詮は他人事だから、
「関係ないし」というのも理解できなくはないが、
桑田投手が発した言葉には傾聴すべきものがある。



「野球の神様に、アリガトウゴザイマス、と感謝した」

「これからも、小さなことを心を込めてやっていきたい」




他人事、野球界のスターという特別な存在の人のこと、
と意に介さない、という選択肢もあるが、
こういうことを題材に、化学反応出来る人間でいたいもの。




自分は、日々、何かに「感謝」しているだろうか…?


本心から「心を込めて」何かに取り組んでいるだろうか…?



桑田投手の好き嫌いは別にして、
論理的にもかなり困難な局面から、己の目標を達成可能なレベルまで引き寄せた男の言葉は重い。



どうでしょう?



貴方は、友人でも家族でも恋人でも同僚でも会社でも仕事でもお天道様でも、
何かに「感謝する」って、最近ありました?




仕事でも恋愛でも趣味でも何でも良いのですが、
「心を込めて」って、ホントに出来てます?



それだけでも、
桑田投手に「感謝」したいし、
「心を込めて」活躍を見守りたいですな~


表題の意味は、フィットネスクラブのはなし。


どこかのクラブに会員になっている人はわかると思うが、
最近はどのクラブも
「相談に乗ります」
「役に立ちます」
といった類いの唄い文句でキャンペーンを展開している。


だが、実は…



本当のところ、皆が大挙して相談に来られたら、お手上げ、なのが実状。


物理的にも、能力的にも。


通っている方はわかると思うが、
大体広いジム内に、およそ100�にスタッフは一人強の配置。
50人前後に一人の割合。
物理的に無理である。



また能力的には、
日本のフィットネスクラブはかなり水準は高いが、
それでも対象は「人体」の話。
全てを網羅して対処出来るというのは、そう簡単なことではなく、
かなりハイレベルなスキルが要求される。



もちろん、そのようなフィットネストレーナーも存在する。
そのようなスタッフに巡り合うことが出来たら、事実上、かなりラッキーと言える。
会員として通っている方がいたら、
もしそのようなフィットネストレーナーがいたら、
絶対に離れないように、ストーカーのごとく手放さない事だ。
そういうスタッフに巡り合うことは、宝くじに当たるほど、難しい。

これが本音。





とは言うものの、
そういうスタッフを育成するのも、私の仕事だったりする。



だが、いくら教育しても、
「情報」はインプットさせられても「知識」にまで昇華させるのは難しい。
「知識」とは、数ある情報を、クライアントが求める形に「編集」し、
望まれる「商品」に仕上げて提供する、という工程が要求される。



つまり、その知り得た「情報」を望まれる形に「編集」するには「感性」も必要であり、
教えてどうこう、というより、
その人が普段、何を考えて生きているかという、
根本的な「物事の考え方」に依存する形になってしまう。




以前にも同じことを書いたが、
人の教育について、私が到達した結論。


「他人と過去は変えられない」

逆に

「自分と未来は変えられる」

ということだ。




つまり、教育とは「交通標識」のようなもの。



例えば、どんなに交通標識を工夫しても違反は無くならず、
相変わらず事故は絶えない。




だが、例えば一時停止の標識の代わりに、
一時停止を無視した人の事故映像や画像を随時流せるように出来たら、
恐らく事故は減るかも知れない。
映像はかなり生々しいし、実現可能かどうかは別にして。



つまり、同じ標識を見ても、
それに反応する人もいれば反応出来ない人もいる。
結局、それに反応出来る、感じられるかどうかは本人に委ねられるわけで、
反応の仕方まで教育するのは不可能。



そう、他人を変えるのには限界があるわけで、
こちら側の対応を変えるしかないのでは?と思うのである。



ある意味、私が少ない経験の中から到達した、
自分なりには究極の結論である。



と、言いながら…




でも、同じ交通標識を見ても、反応出来る人を今よりもっと増やせるはずだ…




と、どこかで諦めてない自分もいる。



教育論については、そこをさまよって、探している。
最近の新聞紙面を見ると、以前と様相が変わったことに気付く。



三面記事ページを見ると、毎日のように「おわび広告」が。
特にこの日はキッコーマンでミスが発覚し、
(健康食品の材料に禁じられているガンマ線を照射した疑い)
キッコーマンと商品を提供していたノエビア、ファンケル、資生堂などの有名企業が紙面のかなりを占めて一斉におわび広告。



今日に限らずのおわび広告の多さだが、
これは「潔く早めにミスを認める」というご立派な意味ではない、というのは周知の事実。



以前にミスをひた隠しにした企業が結果的に致命的なイメージダウンに繋がり、
業績不振からなかなか回復出来ない状況があり、
その後、別の企業がその事を教訓に、
早め早めに事実を明らかにし、結果としてミスを犯したにもかかわらず、企業イメージが上がった。




その例を見習っての、
いわば「狙ったおわび広告」が最近のモノだ。



もちろん、ミスや不祥事は早く明らかにすべきなのは当然だが、
「とりあえず謝っとけ」
「謝りゃいいんだろ」
の安易さがミエミエで、あまり愉快な状況ではない。




ミスは人間である以上、仕方ないこともあるし、二度と起きないようにしてもらえば良いのだが、
不祥事となると話は別だ。
まあミスも広い意味では不祥事になるわけだが…


新聞やニュースで、企業や団体の不祥事を聞かない日はないくらい、
最近の日本の状況は危機的とさえ思えてくる。


恐らく、個人のモラル低下も、
こういった企業の姿勢が反映された結果としての象徴のようなものかも知れない。
個人が先か、企業が先かは分からないが。




話はやや飛ぶが、
先日エスカレーターに立っていると、右脇の空いているところを皆が歩いて通過していた。


それは良しとして、一人の女子高生がテニスラケットを背中でタスキ掛けに背負って歩いていたのだが、
かなり斜めになっていて、身体からかなりはみだしている。



当然、そのまま歩いたらエスカレーターに立っている人にバチバチぶつかるわけで、
その女子高生は脇目も振らず身体を斜めにするでもなく、「スイマセン」の一言もなく、
ひたすら前だけを見て進んでいくのであった。



あまりにも目に余ったので、私が一言
「オネェさん、ラケットもう少し立てるとかしないとぶつかってるでしょ。それにぶつかってたら一言何か言った方が良いんじゃない?」
と言ったら、この世のものとは思えない能面のような顔で射すような視線で睨まれ、
「チッ!…っせぇな…」と捨て台詞を残し、相変わらずバチバチぶつかりながら去って行った。




些細な出来事だが、
何故かこの時、「日本はこのままだとヤベェな…」
と感じたのであった。





この少し前のエントリーで、「儲かる」と「役に立つ」と二者択一が企業モラルを決める、というような内容を書いた。


今日、日本がここまでの状況になってしまったのは、
「消費させる、消費する、ということが最も美徳」とも言える刷り込みが要因と思われる。


つまり間違った「お客様は神様」解釈である。




個人レベルでは色々なものを購入することを目指し、
他人が持っているものは自分も持っていないと満足出来ず…となり。


同時に、「金を払っている以上、こっちゃあお客様」とばかりに、
必要以上に自分を二段、三段上に置くような勘違いぶり。



だから、私が高校生ぐらいのころはそれほど所持金もなく、今ほど消費者になるチャンスはなかったが、
今は高校生も立派なお客様になれている。

だから勘違いが起こる。





企業は企業で、そういう消費者の目をいかに欺き、
お得感を演出しつつ、実は大きな利益を獲得するか、に知恵をギリギリのラインで絞る。



あくまで第一に「儲ける」ために。




誤解を恐れずに言えば、
企業とは、バレない程度に消費者をソーッと騙し、下請けや取引先に無理難題を言って泣かせ、自分の会社だけが儲かるように仕向ける存在、

とも表現できる。


また、そういうことが上手い社員が会社から認められ、
事実、出世していくものである。



そう考えると、企業での会議は、
消費者をどの程度まで欺くか?またはその方法は?を考え、話し合う場である、


とまで言っては言い過ぎか?



これだけ企業がとんでもないことをやっていることが発覚すると、
こう考えた方がむしろつじつまが合うような気さえする。



企業とは、基本的には消費者をダマす存在なのか…