新聞で、大変興味深い投書を目にした。
30代の、小学生の娘を持つ母親からの投書。
娘が卒業文集のコメントを書いたが、
クラスの子どもたちの作文を先生がほとんど手直しして、美しい文章にした…
らしい。
その子は、
「私と仲が良かった子も、そうでなかった子も、6年間ありがとう」
と書いたらしいが、
先生は、
「そうでなかった子、というのは、その子に失礼だから、書かないように」
と言って、直させたらしいのだ。
母親は娘に、
「何と書けば良いのか先生に聞いてごらん。伝えたい事が伝わらなくなるよ」
と話したそうだが、
娘は、
「先生が納得すれば済むのだから…」
と、話を切ってしまったそうで…
何気ない投書だが、
日本の教育現場の、様々な問題点を含んでいる現状である。
教育において最も大事な点は、
物事についての「考え方」をしっかり教える、という点であると考えている。
方法論をいくら伝えても、
現実社会はレアケースの連続…
「考え方」が理解出来れば、
対処法を自分で作る事が出来る。
私が尊敬する、
東京大学の筋生理学の権威、石井直方大学院教授は、自分の高校生時代をこう語っている。
石井先生は筋生理学の研究第一人者でありながら、
ボディビル選手としても日本トップとなり、世界でも活躍された、まさに「文武両道」を地で行った方である。
「高校生までは一切、サッカーに明け暮れていて勉強していなかった。
そんな私でも東大に入れたのは、数学の先生が、公式を教えるのではなく、
『公式の出来かた』を教えて下さったからである。
それによって分からない問題に出くわした時に、自分で『公式』を作る事が出来た。」
考え方を伝える、ということは、
自らの行動の仕方を、自ら考えられる能力を有する、ということになる。
先の投書に関して言えば、
「仲が良かった子もそうでもなかった子も」
と書いた子の気持ちは真実。
ならば、同様の気持ちを表現する方法が、
友だちの気持ちに配慮した別の表現は無いだろうか…?
…と、子どもと共有出来たら良かったのだろう。
それよりも根深いのは、
先生が余裕がなく、
とりあえず卒業文集という公の場で、妙な表現を出すと、自分の指導力不足を露見することになる…?
…ということを恐れたのではないか。
その娘さんの、
「先生が納得すれば済むのだから」
という言葉が、気になる。
小学生6年生の子が、
そこまで大人の事情を汲んでいる…という現状。
教員がそんなことをはっきり言う事はないだろうから、
言葉の端々に、そんな事を推察される内容が含んでいたのか…
事業仕分けで、どの事業に予算を与える与えない、に注目が集まっているが、
教育部門も例外でない。
そこの予算削除など言語道断ではあると思うが、
最も肝心なのは、
「その金を使って、何をどう、誰が、何を目的としてやるのか?」
である。
銃の弾丸の如く、
発射直後に一ミリズレていたら、
ターゲット付近では数メートルの差になる。
それと同様、
教育のスタート時点、
ましてや教師が「考え方が重要」という視点が無ければ、
その子の数年先の人生に大きな影響を残す。
教職を選ぶ人間の責任は重大であると、
改めて認識した次第である。
30代の、小学生の娘を持つ母親からの投書。
娘が卒業文集のコメントを書いたが、
クラスの子どもたちの作文を先生がほとんど手直しして、美しい文章にした…
らしい。
その子は、
「私と仲が良かった子も、そうでなかった子も、6年間ありがとう」
と書いたらしいが、
先生は、
「そうでなかった子、というのは、その子に失礼だから、書かないように」
と言って、直させたらしいのだ。
母親は娘に、
「何と書けば良いのか先生に聞いてごらん。伝えたい事が伝わらなくなるよ」
と話したそうだが、
娘は、
「先生が納得すれば済むのだから…」
と、話を切ってしまったそうで…
何気ない投書だが、
日本の教育現場の、様々な問題点を含んでいる現状である。
教育において最も大事な点は、
物事についての「考え方」をしっかり教える、という点であると考えている。
方法論をいくら伝えても、
現実社会はレアケースの連続…
「考え方」が理解出来れば、
対処法を自分で作る事が出来る。
私が尊敬する、
東京大学の筋生理学の権威、石井直方大学院教授は、自分の高校生時代をこう語っている。
石井先生は筋生理学の研究第一人者でありながら、
ボディビル選手としても日本トップとなり、世界でも活躍された、まさに「文武両道」を地で行った方である。
「高校生までは一切、サッカーに明け暮れていて勉強していなかった。
そんな私でも東大に入れたのは、数学の先生が、公式を教えるのではなく、
『公式の出来かた』を教えて下さったからである。
それによって分からない問題に出くわした時に、自分で『公式』を作る事が出来た。」
考え方を伝える、ということは、
自らの行動の仕方を、自ら考えられる能力を有する、ということになる。
先の投書に関して言えば、
「仲が良かった子もそうでもなかった子も」
と書いた子の気持ちは真実。
ならば、同様の気持ちを表現する方法が、
友だちの気持ちに配慮した別の表現は無いだろうか…?
…と、子どもと共有出来たら良かったのだろう。
それよりも根深いのは、
先生が余裕がなく、
とりあえず卒業文集という公の場で、妙な表現を出すと、自分の指導力不足を露見することになる…?
…ということを恐れたのではないか。
その娘さんの、
「先生が納得すれば済むのだから」
という言葉が、気になる。
小学生6年生の子が、
そこまで大人の事情を汲んでいる…という現状。
教員がそんなことをはっきり言う事はないだろうから、
言葉の端々に、そんな事を推察される内容が含んでいたのか…
事業仕分けで、どの事業に予算を与える与えない、に注目が集まっているが、
教育部門も例外でない。
そこの予算削除など言語道断ではあると思うが、
最も肝心なのは、
「その金を使って、何をどう、誰が、何を目的としてやるのか?」
である。
銃の弾丸の如く、
発射直後に一ミリズレていたら、
ターゲット付近では数メートルの差になる。
それと同様、
教育のスタート時点、
ましてや教師が「考え方が重要」という視点が無ければ、
その子の数年先の人生に大きな影響を残す。
教職を選ぶ人間の責任は重大であると、
改めて認識した次第である。
先日、法勝寺の三田村昌鳳師(元・週刊アサヒゴルフ編集長)のコラムについて書いた。
その続き。
昨年11月に亡くなられた名ゴルファー・島田幸作さんとのエピソード。
バンカーショットに関してのアドバイスの言葉が、
なかなか奥深い。
「バンカーショットの基本は、
まずオープンスタンスにして、
少しアウトサイドにクラブを上げて…
ですが、もちろん、これは正しい。
でも、これは『教科書』なんです。
つまり、『最終的な理想形態。』
理想形態に行き着くまでには幾つかの関門があって、
その意識なく理想形態を目指すと、道を誤る。
そこにたどり着くプロセスの練習法があって良いんです」
そう語って、
少しクローズドスタンスで打つことを指導されたそうだ。
常識からすると、真逆。
真意は、こうらしい。
オープンスタンスにして打て、というバンカーショットの通説は、
二つの条件が出来る、という前提があって…の事だそうだ。
その二つとは、
�砂を薄く「切る」という感覚が分かっていること。
�腰の回転を使って打てること。
その感覚なくして、理想形態ばかり目指すと、永遠に上手く行かない…
と。
クローズドで打つ意味は、
「まずバックスイングは小さく、低く。
そして砂を『切る』ように。
まず砂の取り方を一定にさせることを覚えること。
ボールを打つとか出すとかは考えない。
何故クローズドで打つかと言うと、
バックスイングを小さくしてシャープに振るには、腰の回転をシャープにせざるを得ない。
クローズドにすると腰の逃げ場がないので、意識的に腰を回そうとするクセがつく。
要は理想形態に近付く為のドリル、と云うわけです。」
私はゴルフに特別、詳しいわけではないので、
この考えには賛否両論あるだろう。
そういう枝葉末節は置いておいて、
重要なのは「考え方」。
以前に、
「連続写真に固執する愚」
について書いた事があった。
ゴルフ雑誌で、一流プロのスイングを連続写真で掲載している事が、よくある。
一般ゴルファーは、それを見て、
「そ~か。手首の角度はここまで変えないのか~」
とか、
「この辺では、腰がここまで回ってないとダメなのか~」
などと、その連続分解写真を参考に、
そうなるように涙ぐましい努力をする。
だが…
「そうなる」為には、
ある何かの条件が満たされていなければならず、
また、「そうなる」為には、
その二手・三手前に、ある状態になっていなければ、そのような形にならない。
動きを分解しても、
それは所詮は「分断的なビジュアル」であり、
動きは常に「連鎖・連動」なのである。
何故、このような事を書くのか、と言うと、
全てのスポーツ…
いや、ビジネスの現場に於いても、同じ事が言えるからである。
模倣はもちろん、
己の技量を高める一つの方法論として、重要な要素であるのは間違いない。
だが、ただ真似て、
上手く習得出来る確率は、著しく低い。
「要は、どうなっていれば良いのか」
「要は、どうなっていなければならないのか」
「要は、どこがどーなっていなければ、理想形態になれないのか」
と、云うことになるのであろう。
ビジュアルの研究は重要。
ビジネスに於いて、
結果を出した方々の方法論に耳を傾けるのも重要。
それを記した書物を読むのも大切。
だが、それも、
「その前の段階で、
どうなっていなければならないのか?」…
そこを埋めるのが、「ドリル」。
それを使っての「トレーニング」である。
スポーツも、ビジネスも、
根底は同じである。
「つまりは…」
「要は…」
の検索と
それを邪魔する要素の「消毒」。
(排除)
(このブログ、『検索と消毒』の項、ご参照のこと)
それらの、習慣化である。
その続き。
昨年11月に亡くなられた名ゴルファー・島田幸作さんとのエピソード。
バンカーショットに関してのアドバイスの言葉が、
なかなか奥深い。
「バンカーショットの基本は、
まずオープンスタンスにして、
少しアウトサイドにクラブを上げて…
ですが、もちろん、これは正しい。
でも、これは『教科書』なんです。
つまり、『最終的な理想形態。』
理想形態に行き着くまでには幾つかの関門があって、
その意識なく理想形態を目指すと、道を誤る。
そこにたどり着くプロセスの練習法があって良いんです」
そう語って、
少しクローズドスタンスで打つことを指導されたそうだ。
常識からすると、真逆。
真意は、こうらしい。
オープンスタンスにして打て、というバンカーショットの通説は、
二つの条件が出来る、という前提があって…の事だそうだ。
その二つとは、
�砂を薄く「切る」という感覚が分かっていること。
�腰の回転を使って打てること。
その感覚なくして、理想形態ばかり目指すと、永遠に上手く行かない…
と。
クローズドで打つ意味は、
「まずバックスイングは小さく、低く。
そして砂を『切る』ように。
まず砂の取り方を一定にさせることを覚えること。
ボールを打つとか出すとかは考えない。
何故クローズドで打つかと言うと、
バックスイングを小さくしてシャープに振るには、腰の回転をシャープにせざるを得ない。
クローズドにすると腰の逃げ場がないので、意識的に腰を回そうとするクセがつく。
要は理想形態に近付く為のドリル、と云うわけです。」
私はゴルフに特別、詳しいわけではないので、
この考えには賛否両論あるだろう。
そういう枝葉末節は置いておいて、
重要なのは「考え方」。
以前に、
「連続写真に固執する愚」
について書いた事があった。
ゴルフ雑誌で、一流プロのスイングを連続写真で掲載している事が、よくある。
一般ゴルファーは、それを見て、
「そ~か。手首の角度はここまで変えないのか~」
とか、
「この辺では、腰がここまで回ってないとダメなのか~」
などと、その連続分解写真を参考に、
そうなるように涙ぐましい努力をする。
だが…
「そうなる」為には、
ある何かの条件が満たされていなければならず、
また、「そうなる」為には、
その二手・三手前に、ある状態になっていなければ、そのような形にならない。
動きを分解しても、
それは所詮は「分断的なビジュアル」であり、
動きは常に「連鎖・連動」なのである。
何故、このような事を書くのか、と言うと、
全てのスポーツ…
いや、ビジネスの現場に於いても、同じ事が言えるからである。
模倣はもちろん、
己の技量を高める一つの方法論として、重要な要素であるのは間違いない。
だが、ただ真似て、
上手く習得出来る確率は、著しく低い。
「要は、どうなっていれば良いのか」
「要は、どうなっていなければならないのか」
「要は、どこがどーなっていなければ、理想形態になれないのか」
と、云うことになるのであろう。
ビジュアルの研究は重要。
ビジネスに於いて、
結果を出した方々の方法論に耳を傾けるのも重要。
それを記した書物を読むのも大切。
だが、それも、
「その前の段階で、
どうなっていなければならないのか?」…
そこを埋めるのが、「ドリル」。
それを使っての「トレーニング」である。
スポーツも、ビジネスも、
根底は同じである。
「つまりは…」
「要は…」
の検索と
それを邪魔する要素の「消毒」。
(排除)
(このブログ、『検索と消毒』の項、ご参照のこと)
それらの、習慣化である。
今日、仕事後に患者さんと一杯やり、
帰り道の電車内。
六本木駅から大挙して人が乗ってきたが、
場所柄、キレイなオネェちゃんも多数乗ってくる。
そのうちの一人、
着飾って顔立ちも可愛いオネェちゃん…
乗るや否や、
おもむろにバッグから菓子パンを出し、大口開けて食い始めた…
公衆の人前でモノを食う…
という文化は、私が中学生くらいまで(30年余り前)は無かった文化。
とは云っても、時代が違うのは承知している。
それを全否定するつもりも、今さら無い。
だが…
キレイな格好をしたオネェちゃん…
もしかしたら、ついさっきまで彼氏とデートしてたか、
お店で接客していたか…
それが、ものの数分経たぬうちに、電車内で平気でパンを食う…
…何となく、
「この人の、美的感覚基準は、どこにあるのだろう…」
と、感じてしまった。
もはや、車内でモノを食うなとは云わないが、
自分を客観的に見た場合の、いわゆるギャップ…
て、ことは考えないのか……
なぁ~…なんて。
いや、別にみすぼらしい格好の人なら、
車内でモノ食ってもおかしくない、という事でもないんだけど…
ちょっと話を変えるが、
私はトレーナーを目指す人達に対して、
結構、「形」にこだわる。
例えば今は、
「パートナーレジスタンストレーニング」(第三者が抵抗を掛けてのトレーニング)
や、
「パートナーストレッチ」(第三者がストレッチを施す)
などを指導している最中であるが、
無論、手を触れている、その在り方や角度なども大切なのだが、
最も大事なのは、
「姿勢」。
「体づくり」。
「足下の形」。
である、と考えている。
これらがしっかりしていると、
クライアントの身体の状態や抵抗感が手に取るように分かり、
またフレキシブルに身体を自在に動かせ、コントロールも出来る。
つまり、
形にこだわらないのは、
自らの仕事の精度…
言わば、心の在り方まで、全く無頓着で、
意識が全く無い…
という事を意味する…
と、考えるのである。
他人だから、どう見えても構わない…
肝心なのは触れている手だから、他はどうでも関係ない…
自分という人間は、根本的にどう在りたいか…?
自分は、どういう程度の仕事をする人間になりたいのか…?
そこまで考えるのが面倒くさいなら、
そこまで気にする必要も無いし、
それもまた、その人の人生。
しかし、自分の人生は、
「態度」
「立ち振る舞い」
が、かなりの確率で関わる…
私は、そんな気がするのである。
帰り道の電車内。
六本木駅から大挙して人が乗ってきたが、
場所柄、キレイなオネェちゃんも多数乗ってくる。
そのうちの一人、
着飾って顔立ちも可愛いオネェちゃん…
乗るや否や、
おもむろにバッグから菓子パンを出し、大口開けて食い始めた…
公衆の人前でモノを食う…
という文化は、私が中学生くらいまで(30年余り前)は無かった文化。
とは云っても、時代が違うのは承知している。
それを全否定するつもりも、今さら無い。
だが…
キレイな格好をしたオネェちゃん…
もしかしたら、ついさっきまで彼氏とデートしてたか、
お店で接客していたか…
それが、ものの数分経たぬうちに、電車内で平気でパンを食う…
…何となく、
「この人の、美的感覚基準は、どこにあるのだろう…」
と、感じてしまった。
もはや、車内でモノを食うなとは云わないが、
自分を客観的に見た場合の、いわゆるギャップ…
て、ことは考えないのか……
なぁ~…なんて。
いや、別にみすぼらしい格好の人なら、
車内でモノ食ってもおかしくない、という事でもないんだけど…
ちょっと話を変えるが、
私はトレーナーを目指す人達に対して、
結構、「形」にこだわる。
例えば今は、
「パートナーレジスタンストレーニング」(第三者が抵抗を掛けてのトレーニング)
や、
「パートナーストレッチ」(第三者がストレッチを施す)
などを指導している最中であるが、
無論、手を触れている、その在り方や角度なども大切なのだが、
最も大事なのは、
「姿勢」。
「体づくり」。
「足下の形」。
である、と考えている。
これらがしっかりしていると、
クライアントの身体の状態や抵抗感が手に取るように分かり、
またフレキシブルに身体を自在に動かせ、コントロールも出来る。
つまり、
形にこだわらないのは、
自らの仕事の精度…
言わば、心の在り方まで、全く無頓着で、
意識が全く無い…
という事を意味する…
と、考えるのである。
他人だから、どう見えても構わない…
肝心なのは触れている手だから、他はどうでも関係ない…
自分という人間は、根本的にどう在りたいか…?
自分は、どういう程度の仕事をする人間になりたいのか…?
そこまで考えるのが面倒くさいなら、
そこまで気にする必要も無いし、
それもまた、その人の人生。
しかし、自分の人生は、
「態度」
「立ち振る舞い」
が、かなりの確率で関わる…
私は、そんな気がするのである。