b6bfe8ba.jpg選手の板を無理やり借りて、
ジャンプ台の前にて。


一度やってみたかったのよね~


黙って見たら、選手風…?








…なワケないか…



もし選手なら、
間違いなく、業界最重量(笑)





ホントは優勝選手のように、
板を掲げ挙げて、ジャンプでもしようと思ったが、
それじゃ~余りにもバカ丸出しなんで。




歳もトシだし…
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練習中の選手。


小さいですが、
クリックして拡大すると、テイクオフの瞬間の選手が見えます~
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左右バランスの微調整に余念のない
チーム雪印、桜井選手。
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感覚を確認する、
チーム雪印、梅崎選手。
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緩斜面を繰り返し滑り、
アプローチ(助走)フォームのチェック。
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ジャンプ台が出来るまで、
小さい台で感覚を調整する選手たち。
新聞で、大変興味深い投書を目にした。



30代の、小学生の娘を持つ母親からの投書。





娘が卒業文集のコメントを書いたが、
クラスの子どもたちの作文を先生がほとんど手直しして、美しい文章にした…

らしい。



その子は、


「私と仲が良かった子も、そうでなかった子も、6年間ありがとう」


と書いたらしいが、
先生は、

「そうでなかった子、というのは、その子に失礼だから、書かないように」

と言って、直させたらしいのだ。


母親は娘に、

「何と書けば良いのか先生に聞いてごらん。伝えたい事が伝わらなくなるよ」

と話したそうだが、

娘は、



「先生が納得すれば済むのだから…」


と、話を切ってしまったそうで…







何気ない投書だが、
日本の教育現場の、様々な問題点を含んでいる現状である。






教育において最も大事な点は、
物事についての「考え方」をしっかり教える、という点であると考えている。




方法論をいくら伝えても、
現実社会はレアケースの連続…



「考え方」が理解出来れば、
対処法を自分で作る事が出来る。





私が尊敬する、
東京大学の筋生理学の権威、石井直方大学院教授は、自分の高校生時代をこう語っている。



石井先生は筋生理学の研究第一人者でありながら、
ボディビル選手としても日本トップとなり、世界でも活躍された、まさに「文武両道」を地で行った方である。








「高校生までは一切、サッカーに明け暮れていて勉強していなかった。
そんな私でも東大に入れたのは、数学の先生が、公式を教えるのではなく、
『公式の出来かた』を教えて下さったからである。
それによって分からない問題に出くわした時に、自分で『公式』を作る事が出来た。」









考え方を伝える、ということは、
自らの行動の仕方を、自ら考えられる能力を有する、ということになる。






先の投書に関して言えば、

「仲が良かった子もそうでもなかった子も」

と書いた子の気持ちは真実。



ならば、同様の気持ちを表現する方法が、
友だちの気持ちに配慮した別の表現は無いだろうか…?

…と、子どもと共有出来たら良かったのだろう。






それよりも根深いのは、
先生が余裕がなく、
とりあえず卒業文集という公の場で、妙な表現を出すと、自分の指導力不足を露見することになる…?




…ということを恐れたのではないか。






その娘さんの、


「先生が納得すれば済むのだから」



という言葉が、気になる。




小学生6年生の子が、
そこまで大人の事情を汲んでいる…という現状。




教員がそんなことをはっきり言う事はないだろうから、
言葉の端々に、そんな事を推察される内容が含んでいたのか…





事業仕分けで、どの事業に予算を与える与えない、に注目が集まっているが、
教育部門も例外でない。




そこの予算削除など言語道断ではあると思うが、
最も肝心なのは、


「その金を使って、何をどう、誰が、何を目的としてやるのか?」



である。





銃の弾丸の如く、
発射直後に一ミリズレていたら、
ターゲット付近では数メートルの差になる。




それと同様、
教育のスタート時点、
ましてや教師が「考え方が重要」という視点が無ければ、
その子の数年先の人生に大きな影響を残す。





教職を選ぶ人間の責任は重大であると、
改めて認識した次第である。
先日、法勝寺の三田村昌鳳師(元・週刊アサヒゴルフ編集長)のコラムについて書いた。



その続き。




昨年11月に亡くなられた名ゴルファー・島田幸作さんとのエピソード。


バンカーショットに関してのアドバイスの言葉が、
なかなか奥深い。





「バンカーショットの基本は、
まずオープンスタンスにして、
少しアウトサイドにクラブを上げて…
ですが、もちろん、これは正しい。

でも、これは『教科書』なんです。
つまり、『最終的な理想形態。』


理想形態に行き着くまでには幾つかの関門があって、
その意識なく理想形態を目指すと、道を誤る。
そこにたどり着くプロセスの練習法があって良いんです」





そう語って、
少しクローズドスタンスで打つことを指導されたそうだ。


常識からすると、真逆。




真意は、こうらしい。



オープンスタンスにして打て、というバンカーショットの通説は、
二つの条件が出来る、という前提があって…の事だそうだ。


その二つとは、


�砂を薄く「切る」という感覚が分かっていること。

�腰の回転を使って打てること。




その感覚なくして、理想形態ばかり目指すと、永遠に上手く行かない…



と。



クローズドで打つ意味は、

「まずバックスイングは小さく、低く。
そして砂を『切る』ように。
まず砂の取り方を一定にさせることを覚えること。

ボールを打つとか出すとかは考えない。


何故クローズドで打つかと言うと、
バックスイングを小さくしてシャープに振るには、腰の回転をシャープにせざるを得ない。

クローズドにすると腰の逃げ場がないので、意識的に腰を回そうとするクセがつく。

要は理想形態に近付く為のドリル、と云うわけです。」






私はゴルフに特別、詳しいわけではないので、
この考えには賛否両論あるだろう。



そういう枝葉末節は置いておいて、
重要なのは「考え方」。




以前に、

「連続写真に固執する愚」

について書いた事があった。




ゴルフ雑誌で、一流プロのスイングを連続写真で掲載している事が、よくある。



一般ゴルファーは、それを見て、

「そ~か。手首の角度はここまで変えないのか~」


とか、


「この辺では、腰がここまで回ってないとダメなのか~」



などと、その連続分解写真を参考に、
そうなるように涙ぐましい努力をする。




だが…





「そうなる」為には、
ある何かの条件が満たされていなければならず、
また、「そうなる」為には、
その二手・三手前に、ある状態になっていなければ、そのような形にならない。




動きを分解しても、
それは所詮は「分断的なビジュアル」であり、
動きは常に「連鎖・連動」なのである。





何故、このような事を書くのか、と言うと、
全てのスポーツ…



いや、ビジネスの現場に於いても、同じ事が言えるからである。




模倣はもちろん、
己の技量を高める一つの方法論として、重要な要素であるのは間違いない。



だが、ただ真似て、
上手く習得出来る確率は、著しく低い。



「要は、どうなっていれば良いのか」



「要は、どうなっていなければならないのか」



「要は、どこがどーなっていなければ、理想形態になれないのか」






と、云うことになるのであろう。





ビジュアルの研究は重要。



ビジネスに於いて、
結果を出した方々の方法論に耳を傾けるのも重要。

それを記した書物を読むのも大切。





だが、それも、



「その前の段階で、
どうなっていなければならないのか?」…






そこを埋めるのが、「ドリル」。



それを使っての「トレーニング」である。



スポーツも、ビジネスも、
根底は同じである。



「つまりは…」


「要は…」




の検索と

それを邪魔する要素の「消毒」。
(排除)


(このブログ、『検索と消毒』の項、ご参照のこと)


それらの、習慣化である。
今日、仕事後に患者さんと一杯やり、
帰り道の電車内。



六本木駅から大挙して人が乗ってきたが、
場所柄、キレイなオネェちゃんも多数乗ってくる。




そのうちの一人、
着飾って顔立ちも可愛いオネェちゃん…




乗るや否や、
おもむろにバッグから菓子パンを出し、大口開けて食い始めた…






公衆の人前でモノを食う…

という文化は、私が中学生くらいまで(30年余り前)は無かった文化。



とは云っても、時代が違うのは承知している。

それを全否定するつもりも、今さら無い。




だが…




キレイな格好をしたオネェちゃん…


もしかしたら、ついさっきまで彼氏とデートしてたか、
お店で接客していたか…





それが、ものの数分経たぬうちに、電車内で平気でパンを食う…





…何となく、


「この人の、美的感覚基準は、どこにあるのだろう…」


と、感じてしまった。



もはや、車内でモノを食うなとは云わないが、
自分を客観的に見た場合の、いわゆるギャップ…



て、ことは考えないのか……



なぁ~…なんて。







いや、別にみすぼらしい格好の人なら、
車内でモノ食ってもおかしくない、という事でもないんだけど…










ちょっと話を変えるが、
私はトレーナーを目指す人達に対して、
結構、「形」にこだわる。




例えば今は、


「パートナーレジスタンストレーニング」(第三者が抵抗を掛けてのトレーニング)


や、



「パートナーストレッチ」(第三者がストレッチを施す)



などを指導している最中であるが、
無論、手を触れている、その在り方や角度なども大切なのだが、
最も大事なのは、


「姿勢」。


「体づくり」。


「足下の形」。




である、と考えている。





これらがしっかりしていると、
クライアントの身体の状態や抵抗感が手に取るように分かり、
またフレキシブルに身体を自在に動かせ、コントロールも出来る。






つまり、




形にこだわらないのは、
自らの仕事の精度…




言わば、心の在り方まで、全く無頓着で、
意識が全く無い…




という事を意味する…



と、考えるのである。






他人だから、どう見えても構わない…


肝心なのは触れている手だから、他はどうでも関係ない…






自分という人間は、根本的にどう在りたいか…?



自分は、どういう程度の仕事をする人間になりたいのか…?







そこまで考えるのが面倒くさいなら、
そこまで気にする必要も無いし、
それもまた、その人の人生。





しかし、自分の人生は、


「態度」



「立ち振る舞い」



が、かなりの確率で関わる…






私は、そんな気がするのである。