アダムスミス、マルクス、ケインズ、シュムペーター、ハイエク、フリードマン…。
彼らをはじめ多くの経済学者は理論を立てて何かを説明したかったのではない。
今目の前にある問題を解決すべく取り組んだ結果なのだ。

経済学とはなんと役に立たない学問だと揶揄されることもあろうかと思うし、
私自身あまりに実態経済との乖離故に机上の学問でしかないと
タカをくくっていた面があることは否めない。
しかし経済学の本質は決して机上の理論ではない。
経済学によって経済を完璧にコントロールすることは不可能だ。
しかしながら巨人ゴリアテに立ち向かうダビデのごとく、
例え周囲に批判されようとも、勇気を振り絞って、その難問に立ち向かう学者たちに
私たちはもっと敬意を表さなければならないのだ。

著者自身の思想を少し押し出している部分があるのはご愛嬌。
今の日本に起こっている問題と照らし合わせてみても、
古典経済と言われる分野を正しく学ぶことにとても意義があることを本書で知ることになるだろう。

経済古典は役に立つ (光文社新書)/竹中平蔵

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DVDにて鑑賞。
南アフリカとネルソン・マンデラ、
そしてラグビー南アフリカ代表チーム・スプリングボクスの
ラグビーW杯優勝までを描いた作品。

変に演出したり美化したりすることなく、
当時のまだ融和しきらない南アフリカを
とてもよく表現している良作です。
※もちろん本当の南アフリカ見たことないけど。

南アフリカは今でも多くの問題を抱えている。
むしろ世界中でたくさんの問題を抱えたままだ。
差別、貧困、暴力はなくらなない。

しかしそれを乗り越えようとした先人たちがいる。
当時の南アフリカの姿は遠い過去ではなく、
今現在とどれほど違うというのだろうか。

だからこそこの作品を多くの人に観て欲しい。
27年間牢獄に入れられてなお赦す心を人は持てることを
私たちは知ることができるのだから。

インビクタス / 負けざる者たち [DVD]/モーガン・フリーマン,マット・デイモン,レレティ・クマロ

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情報セキュリティにおいてリスクは下記で表される。

「リスク = 情報資産 x 脅威 x 脆弱性」

この式は情報セキュリティに限らず適用可能であると考える。
ここでは放射線のリスクについて適用し考察し
リスク評価を試みることにしよう。

まず「脅威」は放射線そのもの。強さに比例して値が大きくなる。
それから「脆弱性」は人への影響度と見なすことができる。
例えば放射線がいくら強くても影響がなければリスクは0だ。
現実にはなんらかの影響が考えられるので「脆弱性」を0とは見なせない。

少々厄介なのは「脅威」と「脆弱性」が独立なのかが、
今回のケースでははっきりしながいそこは置いておくことにする。

最後に「資産価値」について考える。
ここで資産は人そのものであり人の命や健康である。
この価値を測る=数値化することは可能であろうか?

結論としてはできない。
多くの人々は「命は代えがたい」と主張している。
特に子どもへの影響などは声高に叫ばれている。

それはそれで正しい。
しかしリスク評価の観点で言えば、
数値化できない=価値が無限だと見なせるので、
結果としてリスクは無限大になる。

したがって「リスク評価を行うことはできない」という結論に達する。

さらに言うと、リスク評価が行えない以上、
「放射線の影響云々についてその議論に意味は無い」
という結論が導かれる。

なぜならば、そもそも資産価値が無限大である(と見なしている)以上、
脅威や脆弱性が0にならない限りリスクは無限大である(と見なされた)ままだから。
もはや「○○Sv以内なら」とか「○○ベクレル以内なら」とか、そんなやり取りに意味はない。

究極的には「原発を廃止し脅威を0にする」以外に納得にいく結論は得られない。

ではこの結論を回避する方法はあるのだろうか?
少なくとも一つ方法がある。
「そもそもリスク評価を行わない」という方法だ。
すなわち安全神話と言い換えてもよい。

前述のとおりリスク評価を行うと落ち着く先は一つしかない。
ならばリスク評価を行わないという逆転の発想により、
原発廃止という結論に導かれることを防ぐことが可能だ。
今までの日本政府の対応と言い換えてもよいかもしれない。
この方法以外に原発廃止の結論を免れる術がないとすれば、
日本政府がこの戦略を採用していたことは極めて妥当であると結論付けられよう。

※原発採用が妥当なのではなく、原発採用という結論が日本政府内にまず先にあって、そこに向けてどのような戦略を採用するかという意味での妥当性。

タバコや大気汚染、自動車事故や飛行機事故など、
他のリスクとの比較による原発リスクの評価を試みて、
反原発の非論理性を明らかにしようとする人達もいるが、
それもやはり無意味なのだ。

他の何と比較しようが、一度原発のリスク評価を始めてしまったら、
人の命に値段をつけない限り、結論は原発廃止以外にはありえない。

一度動き出してしまった歯車は簡単には止まらない。
いっそ脱原発に向けて加速させてしまうか、
自然に止まるまで黙って放っておく以外に方法は無いのである。

※すなわち原発廃止論者が飽きるまで放置するという方法だ。今大きなうねりと化している反原発も、しばらくするとごく一部の人達を除き大半の人達の関心事は別の何かに向いてしまうだろう。
ウサマ・ビンラディンが暗殺された。
ニュースは世界中を駆け巡った。

テロ組織の首謀者。
悪魔のような男。
あるいは英雄。

果たして私たちは彼の、彼らの何を知っているのだろうか?

正義がなされたと言う大統領。
USAと叫び喜ぶ国民たち。
それを冷ややかな目で世界中が見ていることに彼らは気づかない。

正義とは何か?
何故彼らは戦うのか?
何故彼らはアメリカを敵視するのか?

それに想いを馳せることはない、
一人の男の死を無邪気に喜ぶ人達に
私たちは激しく違和感を覚える。

彼が一人死んで世界の何が変わったのだろうか?
一人の男の死は憎しみの連鎖を断ち切るものではない。
食中毒による男児死亡という痛ましい事故が起こった。
生食用ではない肉を生で提供したとのことだ。
なんとけしからん業者なのだと多くの人が感じているのだろう。

しかしながら、驚愕の事実がある。
それは、そもそも現在のこの日本において、
国の基準を満たして出荷された生食用の食肉は存在しない、ということだ。
※一部の馬肉を除く

では、ユッケは?鳥刺しは?
私が先日食べた「これは生で食べられます」と
店員さんに薦められた牛肉やレバーは?
それらは一体なんだったのだろうか。

端的に言えば、全て転用されているということだ。

ここで言いたいことは、だから今回の業者も悪くない、
などということでは決してなくて、
安全性の基準とはなんなんだろう、ということだ。

生食用に関して言えば「基準はあるが規制はない」ようである。
食習慣もあるため簡単に規制には乗り出せなかったようだ。
今回の件を受けて規制を導入することになるのだろうか?

すると私達はおいそれユッケや鳥刺しやレバ刺しを
食べることはできなくなるだろう。
基準を満たすことは困難であるからだ。
コストがかかり割りに合わないのだろう。

しかしながら、こうも思う。
そもそも毎日相当量の生肉が食されているが、
そのほとんどのケースでは問題にならない。
ある意味今回のような食中毒が起こるほうがレアなケースとさえ言える。

だとするならば、そこまで厳しい基準を設ける必要はあるのだろうか?
現実にあうように基準を見直したほうがよいのではないだろうか?

と、どこかで聞いたことあるような話だ。
そう放射線に関する基準だ。

非常事態ということもあり、基準を場当たり的に変更したことに国民は憤りを隠さなかった。

では、今回の件はどうだろうか?

もちろん一度決めた基準を簡単に変えるべきではない。
少なくとも憤りを隠さなかった人達はそう主張すべきだろう。
ケースバイケース?それは国の場当たり的な対応と変わらない。

安全性の基準は、確実性を問われるため、
極めて厳しい値を取ることがほとんどだ。
しかし、その中には「とりあえず安全側に倒す」という
発想で決められたものもあるのではないだろうか?

よほど安全な値になっているため、多少越えてもなんら問題にはならない。
2倍や3倍検出されても影響は皆無なんてことはざらである。
すると基準値ってなんなんだ?というどこかで聞いたような議論に陥ってしまう。

基準を絶対安全におく、それが悪いとは言わない。
むしろ基準をぎりぎりに置くことはありえない

何かあったら責任は取れない。
だから絶対安全まで倒す。必要以上にできる限り倒す。

しかし安全側に倒せば倒すほど、コストはかかるしがんじがらめで身動きが取れなくなる。
少なくとも私たちは安全側に倒すことには副作用があるという事実をきちんと知っておく必要がある。