このブログには、純粋意識セッションの感想だけを書こうと思っていた。
でも思うところあって、セッションに関連して、考えたことも少し書いていこうと思う。
至福についてはたくさんの人がたくさんのことを言っていて、わたしにはよくわからない。
ただ以前、私が読んだり聞いたりした多くの話のなかでは、至福とは追求するものではなく、中毒性があり、そこにとどまろうとする、あるいは取り戻そうとすることが執着になるもの、という捉えられ方をしていた。
あまりに多くの人がそういっているので、私自身漠然と、至福を求めるのは間違っているのだろうかと思っていた。
しかし今年の初めに、セッションを受け始めてからいろいろな変化が起こり、いまでは至福とは誰でももっている種のようなものではないかと思っている。
それはなかなか芽が出ない私のような人もいるし、水を与えればすぐに花開く人もいるけれど、必ず誰でも持っているものだと思う。
そして一度育ち始めれば、見失ったり忘れたりすることはあっても決して失われることはない。
一度回路がつながれば、二度とその回路が閉じられることはない。
閉じられたように感じても、すきまはあって、そこからたえず至福の水が流れ込んでいて、いつのまにか自分が満ちていたことに気づく。
そのように思う。
セッションで回路がつながると、瞑想のときや、共鳴会のとき、それから日常でも、自分の内側の至福(というのは変な言い方だけれど)に触れることができるようになってくる。
そして、意識の進化とか成長っていうのはこの自分が変化して聖人になるんじゃなくて、内側の至福や純粋さにより親しんでいくこと。
何度も何度も触れて、どんどんそれに開かれていくうちに、それが自分の本質だと経験で理解すること。
それによって、もともとある源の意識、生命の無垢なる領域と、日常を生きているこの身体と心が、共鳴し、同調していくことなのではないだろうか。
*これは私のごく個人的な考察です。