三国志(221) 周瑜対孔明 |  今中基のブログ

 これは主客双方で想像していたことであろう。周瑜のすがたを見ると、孔明は起って礼をほどこし、周瑜は、辞を低うして、初対面のあいさつを交わした。 湖の水面は夜を抱いて眠っていた。ひそかな波音が欄下をうつ。雲をかすめて渡る鳥の羽音すら燭にゆれるかのようである。恍惚――寂寞のなかに主客はややしばし唇をつぐみ合っていた。
 楚々――いとも楚々として嫋やかな佳嬪が列をなしてきた。おのおの、酒瓶肉盤を捧げている。酒宴となった。哄笑、談笑、放笑、微笑。孔明と周瑜とはさながら十年の知己のように和やかな会話をやりとりした。
 そのあいだに、
 孔明は周瑜をどう観たか。
 周瑜は孔明の腹をどう察したか。
 傍人には知る限りでない。

 やがて、座をめぐる佳人もみな退いて、主客三人だけとなったのを見すまして、魯粛は単刀直入に彼の胸をたたいてみた。
 「提督のお肚はもう決まっておりましょうな。最後の断が」
 「決まっておる」
 「戦いますか。いよいよ」
 「……いや」「では、和を乞うおつもりなので?」
 と、魯粛は眼をかがやかして、周瑜の面を見まもった。
 「やむを得まい! どう考えてみたところで」
 「えっ、然らば、提督までが、すでに曹操へ降参するお覚悟でおられるのですか」
 「そういえば、はなはだ屈辱のようだが、国を保つためには、最善な策じゃないかな」
 「こは、思いがけないことを、あなたのお口から承るものだ。そもそも、呉の国業は、破虜将軍以来、ここに三代の基をかため、いまや完き強大を成しておる。この富強は、われわれ臣下の子孫をして、懦弱安穏をぬすむために、築かれてきたものではありますまい。一世堅君のご創業の苦心、二世策君の血みどろなご生涯。それによって建国されたこの呉の土を、むざむざ敵将操の手にまかしていいものでしょうか。汲々、一身の安全ばかり考えていていいでしょうか。それがしは思うだに髪の毛が逆立ちます」
 「――が、百姓のため、また、呉のためであるなら仕方がないではないか。そうした三世にわたるわれわれの主家孫一門のご安泰を計ればどうしても」
 「いやいやそれは、懦弱な輩のすぐ口にする口実です。長江の嶮に拠って、ひとたび恥を知り恩を知る呉の精猛が、一体となって、必死の防ぎに当れば、曹軍何者ぞや、寸土も呉の土を踏ませることではありません」
 さっきから黙って傍らに聞いていた孔明は、ふたりが激越に云い争うのを見て、手を袖に入れ、何がおかしいのか、しきりと笑いこけていた。                                              
周瑜は、孔明の無礼を咎めるような眼をして、敢て こう詰問なじった。
 「先生。あなたは何がおかしくて先刻からそうお笑いなさるのか」
 「いや何も提督に対して笑ったわけではありません。余りといえば、魯粛どのが時務にうといので、つい笑いを忍び得なかったのです」
 傍らの魯粛は、眼をみはって、
 「や、何をもって、この魯粛が時務にくらいと仰っしゃるか。近頃、意を得ないおことばだ」
 と、色をなして、共に、孔明の唇をみまもった。
 孔明はいった。
 「でも、考えてもご覧なさい。曹操が兵を用いる巧みさは、古の孫子呉子にも勝りましょう。誰が何といったところで、当今、彼に匹敵するものはありません。――ただ独りわが主君劉予州は、大義あって、私意なく、その強敵と雌雄を争い、いま流亡して江夏に籠っておりますが、将来のことはまだ未知数です。――然るに、ひるがえって、この国の諸大将を見るに、どれもこれも一身一家の安穏にのみとらわれていて、名を恥じず、大義を知らず、国の滅亡も、ほとんど成り行きにまかせているとしか観られない。……そういう呉将の中にあって、粛兄ただ一名のみ、呶々、烈々、主義を主張してやまず、今も提督にむかって、無駄口をくり返しておらるるから、ついおかしくなったまでのことです」
 周瑜はいよいよ苦りきるし、魯粛もまた甚だしく不快な顔をして見せた。孔明のいっていることは、まるで反戦的だからである。折角、周瑜へ紹介の労をとっているのに、まるでその目的も自分の好意も裏切っているような口吻に、憤りを覚えずにいられなかった。
 「では、先生には、呉の君臣をして、逆賊操に膝を屈せしめ、万代に笑いをのこせと、敢ていわないばかりにおすすめあるわけですか」
 「いやいや決して、自分は何も呉の不幸を祈っているわけではない。むしろ呉の名誉も存立も、事なく並び立つように、いささか一策をえがいて、その成功を念じておるものです」
 「戦にもならず、呉の名誉も立派に立ち、国土も難なく保てるようになんて――そんな妙計があるものだろうか」
 魯粛が、案外な顔をして、孔明の心をはかりかねていると、周瑜もともに、その言に釣りこまれて、膝をすすめた。

 「もし、そんな妙計があるなら、これは呉の驚異です。願わくは、初対面のそれがしのために、その内容を、得心の参るよう、つぶさにお聴かせ下さらんか」
 「いと易いことです。――それはただ一艘の小舟と、ふたりの人間の贈物をすれば足ることですから」
 「はて? ……先生のいうことは何だか戯れのように聞えるが」
 「いや、実行してご覧あれば、その効果の覿面なのに、かならず驚かれましょう」
 「二人の人間とは? ……いったい誰と誰を贈物にせよといわれるのか」
 「女性です」 「女性?」
 「星の数ほどある呉国の女のうちから、わずか二名をそれに用いることは、たとえば大樹の茂みから二葉の葉を落すよりやさしく、百千の倉廩から二粒の米を減らすより些少な犠牲でしょう。しかもそれによって、曹軍の鋭鋒を一転北方へかえすことができれば、こんな快事はないでしょう」
 「ふたりの女性とは、そも、何処の何ものをさすのか、はやくそれを云ってみたまえ」
 「まだ自分が隆中に閑居していた頃のことですが――当時、曹軍の北伐にあたって、戦乱の地から移ってきた知人のはなしに、曹操は河北の平定後、漳河のほとりに楼台を築いて、これを銅雀台と名づけ、造営落工までの費え千余日、まことに前代未聞の壮観であるといっておりましたが……」
 孔明は容易に話の中心に触れなかったが、しかも何か聴き人の心をつかんでいた。
「曹操ほどな英傑も、やはり人間は遂に人間的な弱点におち入りやすいものとみえます。銅雀台――。銅雀台のごとき大土木をおのれ一個の奢りのために起したということこそ、はや彼の増長慢のあらわれと哀れむべきではありませんか」
 「先生。それよりは、何が故に、ここにふたりの女性さえ彼に送れば、魏の曹軍百万が、呉を侵すことなく、たちまち北方へかえるなどという予断が下せるのか。その本題について、はやくお話を触れていただきたいものだが」       
 周瑜は二度も催促した。魯粛の聞きたいところもそこの要点だけだ。何を今さら、銅雀台の奢りぶりなどを、ここで審さに聞く必要があろうか――といわんばかりな顔つきである。
 「いや、北国の知人の話は、もっと詳しいものでしたが、では大略して、要をかいつまんで申しましょう。――その曹操は、銅雀台の贅に飽かず、なおもう一つ大きな痴夢を抱いているというのです。それは呉の国外にまで聞えている喬家の二女を銅雀台において、花の晨、月の夕べ、そばにおいて眺めたいという野心です。聞説、喬家の二名花とは、姉を大喬といい、妹を小喬と呼ぶそうで、その傾国の美は、夙にわれわれも耳にしているものです。――思うに、古来英雄の半面には、こうした痴気凡情の例も、ままあるのが慣いですから、この際早速、提督には、人を派して、喬家の門へ黄金を積み、二女を求めて、曹操へお送りあれば、立ちどころに彼の攻撃は緩和され、衂らずして国土の難を救うことができましょう。――これすなわち范蠡が美姫西施を送って強猛な夫差を亡ぼしたのと同じ計になるではありませんか」

 周瑜は顔色を変じて、孔明のことばが終るや否、
 「それは巷の俗説だろう。先生には何か確たる根拠でもあって、そんな巷説を真にうけておられるの
か」
 「もとより確証なきことはいわん」
 「ではその証拠をお見せなさい」

 孔明は静かに語り始めた。(221話)

 

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―次週へ続く―