三国志(220) 周瑜登場 |  今中基のブログ

 周瑜は、呉の先主、孫策と同じ年であった。
 また彼の妻は孫策の妃の妹であるから、現在の呉主孫権と周瑜とのあいだは義兄弟に当るわけである。
 彼は、盧江の生れで、字を公瑾といい、孫策に知られてその将となるや、わずか二十四歳で中郎将となったほどの英俊だった。 だから当時、呉の人はこの年少紅顔の将軍 周瑜を、軍中の美周郎と呼んだり、周郎周郎と持てはやしたりしたものだった。
 彼 孫堅 が、江夏の太守であったとき、喬公という名家の二女を手に入れた。姉妹とも絶世の美人で、
 ――喬公の二名花 
 と、いえば呉で知らない者はなかった。      
 孫策は、姉を入れて妃とし、周瑜はその妹を迎えて妻とした。――が間もなく孫策は世を去ったので、姉は未亡人となっていたが、妹は今も、周瑜のまたなき愛妻として、国もとの家を守っていた。
 当時、呉の人々は、
 (喬公の二名花は、流離して、つぶさに戦禍を舐めたが、天下第一の聟ふたりを得たのは、また天下第一の幸福というものだ)といって祝福した。 わけて、青年将軍の周瑜は、音楽に精しく、多感多情の風流子でもあった。だから宴楽の時などでも、楽人の奏でる調節や譜に間違いがあると、どんなに酔っているときでも、きっと奏手の楽人をふりかえって、
 (おや。いまのところは、ちょっとおかしいね)
 と、注意するような眼をするのが常だった。
 だから当時、時人のうたう中にも、
  曲に誤リアリ  周郎、顧ミル
 という歌詞すらあるほどだった。

 こういう周瑜も、今は孫策亡きあとの呉の水軍提督たる重任を負って、へ来てからは、家にのこしてある愛妻を見る日もなく、好きな音楽に耳を洗ういとまもなく、ひたすら呉の大水軍建設に当っていた。
 しかもその水軍がものいう時機は迫っていた。魏の水陸軍百万乃至八十万というものが南下を取って、
 我ニ質子ヲ送リ、
 我軍門ニ降ルカ
 我ニ兵ヲ送リ、
 我粉砕ヲ受ケルカ
 と、すこぶる高圧的に不遜な最後通牒を呉へ突きつけてきているという。
 もとより周瑜がそれを知らないはずはない。しかし、彼の任は政治になく、水軍の建設とその猛練習にある。――今日も彼は、舟手の訓練を閲して、湖畔の官邸へひきあげて来ると、そこへ孫権からの早馬が来て、
 「すぐさま柴桑城までお出向きください。国君のお召しです」
 と、権の直書を手渡して帰って行った。
 「いずれは……」と、かねて期していたことである。周瑜は、ひと休みすると、すぐ出立の用意をしていた。ところへ、日頃、親密な魯粛がたずねて来て、          
 「いま、お召しの使いがあったでしょう。実は、その儀について、あらかじめ提督にお告げしておきたいことがあって参ったのです」と、孔明の来ている事情から、国臣の意見が二つに分れている実情などをつぶさに話し、――それに加えて、ここで呉が曹操に降伏したら、すでに地上に呉はないも同様であると、自分の主張をも痛論した。
「よろしい。ともかく、孔明と会ってみよう。――柴桑城へ伺うのは、孔明の肚を訊ねてみてからでも決して遅くはあるまいからともかく彼をつれて来給え。それまで登城をのばして待っているから」      
 周瑜のことばに、魯粛は力を得て、欣然、馬をかえして行った。――すると、同日の午過ぎ、またもや、張昭、顧雍、張紘、歩隲などの非戦派が、打ち揃ってここへ訪れ、
 「魯粛が来たのでしょう。実に怪しからん漢だ。何の故か、彼は孔明のために踊らされて、国を売り、民を塗炭の苦しみに投げこもうと、ひとりで策動しておる。――この危機と岐路に立って、提督はいったいどういうご意見を抱いておられますか」
 と、周瑜を囲んで、論じ立てるのであった。四名の客を見くらべながら周瑜はいった。
 「各〻のご意見はみな、不戦論に一致しているわけかな?」
 「もちろん吾々の議決はそこに一致しています」
 顧雍の答を聞いて、周瑜は大きくうなずきながら、
 「同感だな。実は自分も疾くから、ここは戦うべきに非ず、曹操に降って和を乞うのが呉の為だと考えていたところだ。明日は柴桑城に登って、呉君にも申しのべよう。きょうはひとまずお帰りあるがいい」と、いった。
 四名は喜んで立ち帰った。しばらくするとまた、一群れの訪客が押しかけてきた。黄蓋、韓当、程普などという錚々たる武将連である。

 客間に通されるやいな、程普、黄蓋などこもごもに口をひらきだした。
 「われわれは先君破虜将軍にしたがって呉の国を興して以来、ひとえに一命はこの国に捧げ、万代鎮護の白骨となれば、願いは足る者どもです。然るにいま、呉君におかれては、碌々一身の安穏のみを計る文官たちの弱音にひかれて、遂に、曹操へ降伏せんかの御気色にうかがわれる。実に残念とも何ともいいようがありません」
 「たとえ吾々の身が、ずたずたにされようとも、この屈辱には忍び得ない。誓って、曹操の前に、この膝は屈せぬつもりです。――提督はそも、この事態にたいし、いかなるご決心を抱いておらるるか。きょうはそれを伺いに来たわけですが」と、周瑜を囲んでつめ寄った。
  周瑜は、反問して、
 「では、この座にある方々は、すべて一戦の覚悟を固めておるのか」
 黄蓋は主の言下に自分の首すじへ丁と手を当てて見せながら、
 「この首が落ちるまでも、断じて、曹操に屈伏せぬ心底です」と、いった。
 ほかの武将も、異口同音に、誓いを訴え、即時開戦の急を、激越な口調で論じた。
 「よしよし、この周瑜も、もとより曹操如きに降る気はない。しかし、きょうの所はひとまず静かに引揚げたがいい。事は明日決するから」と、なだめて帰した。
 夕方に迫って、また客が来た。刺を通じて、
 「――これは、呂範、朱治、諸葛瑾などの輩ですが、折入って、提督にお目にかかりたい」
 なお附け加えて、
 「国家の一大事について」と申し入れた。
 この人々は、いわゆる中立派であった。主戦、非戦、いずれとも考えがつかないために来たのである。
 周瑜は、その中にある諸葛瑾を見て、まず問うた。
 「あなたはどう考えているのですか。あなたの弟諸葛亮は、玄徳のむねをうけて、呉との軍事同盟をはかり、共に曹操に当らんという使命をもって来ておる由だが」
 「それ故に、てまえの立場は、非常に困っております。私は孔明の兄だとみられておりますから。――で、実は、わざと商議にも関わらず、心ならずも局外に立って、この紛論をながめているわけです」
 「それは、どうかと思うな」と周瑜は唇もとをゆがめて、
 「ご辺の立場は分るが、兄であるとか弟であるとか、そんなことは私事だ。家庭の問題とはちがう。孔明はすでに他国の臣。ご辺は呉の重臣。おのずから事理明白ではないか。呉臣として、貴公の信ずるところは、戦いにあるのか降伏にあるのか」
 瑾は、沈黙していたが、
 「降参は安く、戦は危うし。呉の安全を考えるときは、戦わぬに限ると思います」
 と、やがて答えた。
 周瑜はゆがめていた唇もとから一笑を放って、
 「では、弟の孔明とは、反対なお考えだな。なるほどご苦衷だろう。――ともあれ大事一決の議は、明日、それがしが君前に伺った後にする。今日は帰り給え」
 かくてまた、夜に入ると、呂蒙だの、甘寧だのという名だたる将軍や文官たちが、入れ代り立ちかわり、ここの門へ入ってはたちまち出て行った。それは実におびただしい往来だった。

 夜が更けても、客の来訪はやまない。そして、

 「即時開戦せよ」 という者があるし、

 「いや、和を乞うに如かず」と、唱えるものがあるし、何十組となく客の顔が変っても、依然、いっていることは、その二つのことをくり返しているに過ぎなかった。
 ところへ、取次ぎの者が、そっと主の周瑜に耳打ちした。
 「魯粛どのが、仰せに従って、ただ今、孔明をつれて戻って見えられましたが」
 周瑜も小声でいいつけた。
 「そうか。では、ほかの客にはそっと、べつな部屋へ通しておけ、奥の水亭の一室がよかろう」
 それから周瑜は、大勢の雑客に向って、
 「もう議論は無用にしてくれ。すべては明日君前で一決する。各〻は立ち帰って明日のために熟睡しておくべきだろう。そのほうがどんなに意義があるかしれん」と、燭を剪って、
 「わしも今宵はもう眠るから」と、追い返すように告げて別れた。
 詮方なく一同が帰ってゆくと、周瑜は衣をかえて、魯粛と、孔明とを待たせてある水閣の一欄へ歩を運んできた。――どんな人物であろう?(220話)

 

 

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