今中基のブログ

 夜が白むと、業都《ぎょうと》の街には、鉦太鼓《かねたいこ》の音がやかましかった。于禁《うきん》一族や七手の大将が、それぞれ出陣する触れである。貝の音もする、銅鑼も聞える。龐徳の邸でも、はや門を開かせ、掃き浄めた道を、やがて主人が郎党を従えてきた。
 見れば、彼の兵は、列の真っ先に、白錦襴《しろきんらん》で蔽《おお》いをした柩を高々と担っている。門外に堵列していた五百余人の部将や士卒はびっくりした。葬式が出てきたと思ったからである。
 「一同、怪しむをやめい」
 馬上ゆたかな姿をそこに現した龐徳は、鞍の上から部下へ告げた。生きて還らぬ今度の決心と、そして魏王の大恩とを。 語をつづけてさらに陳《の》べた。
 「日頃、その方どもの心根にも、おれは深く感じておる。もしこの龐徳が、関羽に討たれ、空しき屍となったときは、この柩に亡骸を収め、かえって魏王の見参に入れてくれい。――とはいえおれも一代武勇に鍛えた龐徳だ、むざむざとは討たれん。ただかくの如く、生死を天に帰して、今朝の出陣をいたすまでである」
 思い極めた大将の覚悟は、部下の心にも映らずにいない。かくて、龐徳の出陣ぶりは、すぐ曹操の耳へ入った。
 「うム、そうか、よし、よし」
 曹操は聞くと、喜悦をあらわした。が、賈詡《かく》側にあって、
 「大王、何をお歓びですか」と、いった。曹操は、問うも野暮といわぬばかりに、われ龐徳の出陣の壮《さか》んなるを悦ぶなり――と云った。

  ――諺《ことわざ》にも、両剛闘えば一傷《しょう》ありで、魏にとっては、又なき大将を、むざむざ死なせにやるようなことは、国家のため、決して良計とは思われません。いまのうちに、少し彼の気持を、弱めたほうが、将来の計かと思われますが……」
 「や。実にそうだ」
 すると、賈詡は、
 「おそれながら、大王には、ちとご推測を過っておられるようです。関羽は世の常の武将ではありません。すでに天下に彼の名が轟いてから三十年、未だいちどの不覚を聞かず、不信の沙汰なく、無謀のうわさを知りません。いま、その武勇にかけて、関羽と対立し、よく互角の勝負をする者は、おそらく驍勇無比《ぎょうゆうむひ》なる龐徳をおいては、ほかに人物はおりますまい。この点は大王のお眼鑑《めがね》に、私も心服しておるものでございます。さりながらそれは武勇だけの問題です。智略は如何となると、これはとうてい、関羽の巧者には及ばないことあきらかです。――それを龐徳が悲痛なる決意と血気にまかせて、あのようにして出て行ったのは、実に、敵を知らざるもの、暴虎の勇、私には、危なくて見ていられませんでした。 
曹操はすぐ使いを派した。――龐徳の途中を追いかけさせてである。
 使者は、追いついて、告げた。
 「王命です。――戦場に着いても、かならず軽々しく仕懸《しかけ》るな、敵を浅く見るな。敵将関羽は、智勇兼備の聞えある者。くれぐれも大事をとって仕損じるなかれ――とのおことばでありまする」
 「かしこまって候う」
 謹んで答えたが、使者が帰ったあとで、龐徳は非常に笑った。
 「何をお笑いになるので?」と、諸人が訊くと、
 「いや、大王のご入念が余りにも過ぎると、かえって、この龐徳の心を弱め給うようなことになる。       それ故、われはわざと一笑して、この意志を弱めずと、誓い直しているのである」
 と、いった。
 于禁は元来が弱気なので、それを聞くや、眉をひそめ、
 「概すでに敵を呑む将軍の意気は大いによろしいが、魏王の戒めも忘れ給うな。中道によく敵を見て戦われよ」と、忠告した。
 「三軍すでに征旅に立つ。何の顧《かえり》みやあらん。関羽関羽と、まるで呪符《じゅふ》のように唱えるが、彼とてよも鬼神ではあるまい」

 樊城《はんじょう》の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽はその中軍に坐し、夜中ひんぴんと報じてくる注進を聞いていた。 魏の援軍数万騎と。
 大将于禁、副将龐徳、さらに魏王直属の七手組七人の大将も、各自その士馬精鋭をひっさげ、旋風のごとく、進軍中と。
 先鋒の龐徳は、関羽の首をあげずんば還らずと、白き旗に、「必殺関羽」と書き、軍卒には柩を担がせ三十里余の地に陣し、螺鼓銅鉦《らこどうしょう》を鳴らして、気勢ものすごきばかりにて候う――と。
 この報告を聞くと、関羽は、勃然と面色を変じ、その長い髯《ひげ》に風を呼んで云った。
  「匹夫、我を辱めるか、よしその儀なればまず龐徳の望みにまかせ、彼を持参の柩に納めてやろう」
 直ちに、駒を寄せてまたがり、また養子の関平を呼んで云った。
  「父が、龐徳と戦うあいだ、汝は油断なく、樊城を衝《つ》け、魏の援軍、城外三十余里のあなたに来れりと知れば、城兵の意気は とみに昂《たか》まり、油断していると反撃してくるぞ」
 関平は、父の乗馬の口輪をつかんだ。そしてその前に立ちふさがり、
  「こは父上らしくもないことです。たとえ龐徳がどんな豪語を放とうと、珠を以て雀に抛ち、剣を以て蠅を追うような、もったいないことはなさらないでください。彼が如き鼠輩を追うには、私でたくさんです。私をおつかわし下さい」               
  「うむ。……まず試みに、おまえが行って当ってみるか」
 関羽は子の忠言に喜びを示した。父を諫めるようにまで、わが子関平も成人したかと思うのであろう。

   「行ってきます。吉左右《きっそう》をお待ち下さい」
 若い関平はたちまち馬上の人となり、部下一隊を白刃でさし招くと、凛々、先に立って駈けだした。
 やがて前方に、雲か霞《かすみ》をひいたように、敵の第一陣線が望まれた。手をかざして見れば、皀《くろ》い旗には「南安之龐徳と印し、白い旗には「必殺関羽」と書いてあるのが見える。
 関平は、駒をとどめて、
  「西京の匹夫、節操なき職業的武将。これへ出て、真の武将たるものに面接せよ」
 と、大音で呼んだ。(341話)

                                                              ― 次週に続く ―