今中基のブログ -2ページ目

 その夜、呉陣第一の老将黄蓋が、先手の陣からそっと本営を訪ねて来て、周瑜と密談していた。
 黄蓋は孫堅以来、三代呉に仕えてきた功臣である。白雪の眉、烱々たる眸、なお壮者をしのぐものがあった。
 「深夜、お訪ねしたのは、余の儀でもないが、かく対陣の長びくうちに、曹操はいよいよ北岸の要寨をかため、その船手の勢は、日々調練を積んで、いよいよ彼の精鋭は強化されるばかりとなろう。しかのみならず、彼は大軍、味方は寡兵、これを以て、彼を討つには火計のほかに兵術はないと思う。……周都督、火攻めはどうじゃ、火術の計は」
 「しっッ」と周瑜は、老将の激しこむ声音を制して、
 「おしずかに、ご老台。あなたは一体、誰からそんなことを教えられましたか」
 「誰から? ……馬鹿をいわっしゃい。わしの本心から出た信念じゃ」
 「ああ、ではやはり、ご老台の工夫とも一致したか。――ではお打明けするが、実は、降人の蔡仲、蔡和の両名は、詐って呉へ投じてきたが、それを承知で、味方のうちに留めてあります。敵の謀略の裏をかいて、こちらの謀略を行わんためにです」
 「ふむ。それは妙だ。してその降人を、都督には、どう用いて、曹操の裏をかくおつもりか? ……」
 「その奇策を行うには、呉からも曹操の陣へ、詐りの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
 周瑜が嘆息をもらすと、
 「なぜ、ないといわるるか」
 黄蓋は、せき込むように、身をすすめて、詰問った。
 「呉国、建って以来、ここ三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。――ここに、不肖ながら、黄蓋もおるつもりでござるに」
 「えっ。……ではご老台が、進んでその難におもむいて下さるとか」
 「国祖孫堅将軍以来、重恩をこうむって、いま三代の君に仕え奉るこの老骨。国の為とあれば、たとい肝脳地に塗るとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
 「あなたにそのご勇気があれば、わが国の大幸というものです。……では」
 周瑜は、あたりを見まわした。陣中寂として、ここの一穂の燈火のほか揺らぐ人影もなかった。
 何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、鼓手に命じて、諸人を集めた。

 孔明も来て、陣座のかたわらに床几をおく。周瑜は、命を下して、
 「近く、敵に向って、わが呉はいよいよ大行動に移るであろう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あって、各兵船に、約三ヵ月間の兵糧を積みこんでおけ」と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋がすすみ出ていった。
 「無用なご命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
 「三月分と申したのだが、それがどうした」
 「三月はおろか、例え30ヵ月の兵糧を積んだところで無駄な業、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
 周瑜は、勃然と怒って、
 「やあ、まだ一戦も交じえぬに、味方の行動に先だって不吉なことばを! 武士ども、その老いぼれを引っくくれ」
 黄蓋も眦を裂いて、
 「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々と無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮らず、必勝の的もなき命をにわかに発したとて、何で唯々諾々と服従できようか。――いたずらに兵を損ずるのみだわ」
 「ええ、いわしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑わす痴れ者め。誓って、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。――これっ、なぜその老いぼれに物をいわしておくか」
 「ひかえろ、周瑜、汝ごときは、せいぜい、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方に、縄を打てるものなら打ってみよ」
 「斬れっ。――彼奴を!」
 面に朱をそそいで、周瑜の指は、閻王が亡者を指さすように、左右へ叱咤した。
 「あっ、お待ち下さい」
 一方の大将甘寧が、それへ転び出て、黄蓋に代って罪を詫びた。
 しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
 「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に額をすりつけて、
 「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
 周瑜はなお肩で大息をついていたが、
 「人々がそれほどまでに申すなれば、一時、命はあずけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百杖の刑を加えて、陣中に謹慎を申しつける」と、云い放った。
 即ち、獄卒に命じて杖百打を加える事になった。黄蓋はたちまち衣裳甲冑をはぎとられ、仮借もなく、棍棒を振りあげてのぞむ獄卒の眼の下に、無残、老い細った肉体を、しかも衆人監視の中に曝された。
「打て、打てっ、仮借いたすなっ。ためらう奴は同罪に処すぞ!」
 怒りにふるえ、猛りに猛って、周瑜の耳は、詫び入る諸将のことばなど、まるで受けつけなかった。
 「一打! 二打 三打!」
 杖を持った獄卒は、黄蓋の左右から、打ちすえた。黄蓋は地にうッ伏して、五つ六つまでは、歯をくいしばっていたが、たちまち、悲鳴をあげて跳び上がった。
 そこをまた、
 「十っ……。十一っ……」
 杖は唸って、この老将を打ちつづけた。血はながれて白髯に染み、肉はやぶれて骨髄も挫けたろうと思われた。
 「九十っ。九十一っ……」
 百近くなった時は、打ちすえる獄卒のほうも、へとへとに疲れていた。もちろん黄蓋ははや虫の息となって、昏絶してしまった。周瑜もさすがに顔面蒼白になって、睨めつけていたが、唾するように指して
 「思い知ったか!」
 云い捨てると、そのまま、営中へ休息に入ってしまった。

 諸将はその後で、黄蓋を抱きかかえ、彼の陣中へ運んで行ったが、その間にも、血は流れてやまず、蘇生してはまたすぐ絶え入ること幾度か知れないほどだったので、日頃、彼と親しい者や、また呉の建国以来、治乱のあいだに苦楽を共にしてきた老大将たちは、みな涙をながして傷ましがった。
 この騒ぎを後に、孔明はやがて黙々と、自分の船へ帰って行った。そして独り船の艫にいて、船欄から下をのぞみ、何事か沈吟にふけりながら、流るる水を見入っていた。
 魯粛は、彼のあとを追ってきたらしく、孔明がそこに腰かけていると、すぐ前に現れて話しかけた。
 「どうも、きょうのことばかりは、胸が傷みました。周都督は、軍の総司令だし、黄蓋は年来の先輩。諫めようにも、あのお怒りでは、かえって、火に油をそそぐようなものですし……ただはらはらするのみでした。――けれど、先生は他国の賓客であり、先頃から周都督も、心から尊敬を払っておられるのですから、もし先生が、黄蓋のために取りなして下さればとは、ひとり魯粛ばかりでなく、みなそう思っていたらしく見えました。……然るに、先生は終始黙々、手を袖にして、ついに一言のお口添えもなさらず、ただ見物しておられた。……それには何か深いお考えでもあったのですか」
 「はははは、それよりもお訊きしたいのは、貴公こそ、何故、この孔明を欺こうとはなさるるか」
 「や? これは異な仰せ。あなたを呉へお伴れして参ってから以来、それがしはまだあなたを欺いたことなど一度もないつもりですが」
 「――ならば、貴公はまだ、兵法に秘裏変表の不測あることをご存じないとみえる。周瑜が今日、朱面怒髪して、黄蓋に百打の笞を刑し、憤然、陣中の内争を外に発してみせたのは、みな曹操をあざむく計である。何でそれを孔明が諫めよう」
 「えっ、ではあれも計略ですか」
 「明白な企み事です。――が、粛兄。孔明がそういったということは、周都督へは、必ず黙っていて下さいよ。問われても」
 「……ははあ! さては」
 魯粛は、気の寒うなるのを覚えた。けれどなお半信半疑なここちで、その夜、ひそかに帳中で、周瑜と語ったとき、周瑜から先にこう云い出したのを幸いに、糺してみた。
 「魯粛、きょうのことを、陣中の味方は皆、どう沙汰しているね」
 「滅多に見ないお怒りようと、みな恟々としておりますよ」
 「孔明は? ……何といっておるかね」

 「都督も、情けないお仕打ちをするといって、哀んでおりました」
 「そうか! 孔明もそういっていたか」と手を打って、
 「初めて孔明をあざむくことができた。孔明がそう信じるほどなら、このたびのわが計は、かならず成就しよう。いや、もう図にあたれりといってもいい」
 周瑜は会心の笑みをもらして、初めて魯粛に心中の秘を打ち明けた。(233話)

                     ―次週へ続く―