いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし――とひそかに自負している曹操である。一片の書簡を見るにも実に緻密冷静だった。蔡和、蔡仲はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れておいたものであるが、疑いないその二人から来た書面に対してすら慎重な検討を怠らず、群臣をあつめて、内容の是非を評議にかけた。
「……蔡兄弟からも、さきに呉へ帰ったからも、かように申し越してきたが、ちと、はなしが巧過ぎるきらいもある。さて、これへの対策は、どうしたものか」
彼の諮問に答えて、諸大将からもそれぞれ意見が出たが、その中で、例の蒋幹がすすんで云った。
「面を冒して、もう一度おねがい申します。不肖、さきに御命をうけて、呉へ使いし、周瑜を説いて降さんと、種々肝胆をくだきましたが、ことごとく、失敗に終り、なんの功もなく立ち帰り、内心、甚だ羞じておる次第でありますが――いまふたたび一命をなげうつ気で、呉へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申し越しが、真実か否かを、たしかめて参るならば、いささか前の罪を償うことができるように存じられます。もしまた、今度も何の功も立てずに戻ったら、軍法のお示しを受けるとも決してお恨みには思いません」
曹操はいずれにせよ、にわかに決定できない大事と、深く要心していたので、
「それも一策だ」と、蒋幹の乞いを容れた。
蒋幹は、小舟に乗って、以前のごとく、飄々たる一道士を装い、呉へ上陸った。
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでいた。
襄陽の名士の甥で、龐統という人物である。
龐徳公といえば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生司馬徽ですら、その門には師礼をとっていた。
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、臥龍・鳳雛ということをよくいっていたが、その臥龍とは、孔明をさし、鳳雛とは、龐徳公の甥の――龐統をさすものであることは、知る人ぞ知る、一部人士のあいだでは隠れもないことだった。
それほどに、司馬徽が人物を見こんでいた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思われていた。
きょう、呉の中軍に、ぶらりと来ていた客は、その龐統だった。龐統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かった。
「先生には近頃、つい、この近くの山にお住いだそうですな」
「荊州、襄陽の滅びて後、しばし山林に一庵をむすんでいます」
「呉にお力をかし賜わらんか、幕賓として、粗略にはしませんが」
「もとより曹軍は荊州の故国を蹂躙した敵。あなたからお頼みなくとも呉を助けずにおられません」
「百万のお味方と感謝します。―が、いかにせん味方は寡兵どうしたら彼の大軍を撃破できましょうか」
「火計一策です」
「えっ、火攻め。先生もそうお考えになられますか」
「ただし渺々たる大江の上、一艘の船に火がかからば、残余の船はたちまち四方に散開する。――ゆえに、火攻めの計を用うるには、まずその前に方術をめぐらし、曹軍の兵船をのこらず一つ所にあつめて、鎖をもってこれを封縛せしめる必要がある」
「ははあ、そんな方術がありましょうか」
「連環の計といいます」
「曹操とても、兵学に通じておるもの。いかでさような計略におちいろう。お考えは至妙なりといえど、おそらく鳥網精緻にして一鳥かからず、獲物のほうでその策には乗りますまい」
――こう話しているところへ、江北の蒋幹が、また訪ねてきたと、部下の者が取次いできたのだった。それを機に、龐統は暇をつげて帰った。
周瑜は、それを送って、ふたたび営中にもどると、天地を拝礼して、喜びながら、
「われにわが大事を成さしむるものは、いまわれを訪う者である」と、いった。
やがて、蒋幹は、案内されて、ここへ通ってきた。――この前のときと違って、出迎えもしてくれず、
周瑜は、上座についたまま、傲然と自分を睥睨している様子に、内心、気味わるく思いながらも、
「やあ、いつぞやは……」と、さりげなく、親友ぶりを寄せて行った。
すると周瑜は、きっと、眼にかど立てて、「蒋幹。また貴公は、おれを騙そうと思ってきたな」
「えっ……騙そうとして? ……あははは、冗談じゃない。旧交の深い君に対してなんで僕がそんな悪
辣なことをやるもんか。……それどころではない。吾輩は、実は先日の好誼にむくいるため、ふたたび来て、君のために一大事を教えたいと思っておるのに」
「やめたがいい」
周瑜は噛んで吐き出すように、
「――汝の肚の底は、見えすいている。この周瑜に、降参をすすめる気だろう」
「どうして君としたことが、今日はそんなに怒りッぽいのだ。激気大事を誤る。――まあ、昔がたりでもしながら、親しくまた一献酌み交わそう。そのうえでとっくり話したいこともある」
「厚顔なる哉。これほどいっておるのにまだ分らんか。汝、――いかほど、弁をふるい、智をもてあそぶとも、なんでこの周瑜を変心させることができよう。海に潮が枯れ、山に石が爛れきる日が来ろうとも断じて、曹操如きに降るこの方ではない。――先頃はつい、旧交の情にほだされ、思わず酒宴に心を寛うして、同じ寝床で夢を共にしたりなどしたが、不覚や、あとになって見れば、予の寝房から軍の機密が失われている。大事な書簡をぬすんで貴様は逃げ出したであろうが」
「なに、軍機の書簡を……冗談じゃない、戯れもほどほどにしてくれ。何でそんなものを吾輩が」
「やかましいっ」
と、大喝をかぶせて、
「――そのため、折角、呉に内通していた張允、蔡瑁のふたりを、まだ内応の計を起さぬうちに、曹操の手で成敗されてしまった。明らかに、それは汝が曹操へ密報した結果にちがいない。――それさえあるに、又候、のめのめとこれへ来たのは、近頃、魏を脱陣して、この周瑜の麾下へ投降してきておる蔡和、蔡仲に対して、何か策を打とうという肚ぐみであろう。その手は喰わん」
「どうしてそう……一体このわしを頭から疑われるのか」
「まだいうか。蔡和、蔡仲は、まったく呉に降って、かたく予に忠節を誓いおるもの。豈、汝らの妨げに遭って、ふたたび魏の軍へかえろうか」
「そ、そんな」
「だまれ、だまれっ。本来は一刀両断に斬って捨てるところだが、旧交の誼みに、生命だけは助けてくれる。わが呉の軍勢が、曹操を撃破するのも、ここわずか両三日のあいだだ。そのあいだ、この辺につないでおくのも足手まとい。誰かある! こやつを西山の山小舎へでもほうりこんでおけ。曹操を破って後、鞭の百打を喰らわせて、江北へ追っ放してくれるから」
と、蒋幹を睨みつけ、左右の武将に向って、虎のごとく云いつけた。
武士たちは、言下に、
「おうっ」
と、ばかり蒋幹を取り囲んで、有無をいわさず営外へ引っ立てて行った。そして、一頭の裸馬の背に掻き乗せ、厳しく前後を警固して西山の奥へ追い上げた。山中に一軒の小舎があった。おそらく物見小舎であろう。蒋幹をそこへほうり込むと、番の兵は、昼夜、四方に立って見張っていた。(236話)
―次週へ続く―