三国志(219) 孫権迷う |  今中基のブログ

 おどろいたのは、各所に屯していた文武の諸大将や宿老である。
 「開戦だっ。出動。出動の用意」という触れを聞いても、
 「嘘だろう?」と、疑ったほどであった。
 それもその筈で、つい今し方、賓殿の上で、孔明の不遜に憤った主君は、彼を避けて、奥へかくれてしまったと、愉快そうに評判するのを聞いていたばかりのところである。
 「間違いだろう、何かの」
 がやがやいっている所へ、魯粛は意気ごみぬいて、触れて廻ってきた。やはり開戦だという。人々は急にひしめきあった。色をなして、開戦反対の同志をあつめた。
 「孔明に出しぬかれた! いざ来い、打ち揃って、直ぐさま君をご諫止せねばならん」
 張昭を先に立て、一同気色ばんで、孫権の前へ出た。――孫権も、来たな、という顔を示した。
 「臣張昭、不遜至極ながら、直言お諫めしたい儀をもって、これへ伺いました」
 「なんだ」
 「おそれながら、君ご自身と、河北に亡んだ袁紹とを、ご比較遊ばしてみて下さい」
 「…………」
 「あの袁紹においてすら、あの河北の強大をもってすら、曹操には破られたではございませぬか。しかもその頃の曹操はまだ、今日のごとき大をなしていなかった時代です」
 張昭の眼には涙が光っていた。

 「伏して、ご賢慮を仰ぎまする―ゆめ、孔明ごとき才物の弁に大事を計られ、国家を誤り給わぬ様に」
張昭のあとについて、顧雍も諫めた。ほかの諸大将も極言した。
 「玄徳はいま、手も足も出ない状態に落ちている。孔明を使いとしてわが国を抱きこみ、併せて、曹操に復讐し、時至らば自己の地盤を拡大せんとするものでしかない」
 「そんな輩に語らわれて、曹操の大軍へ当るなど、薪を負うて猛火の中へ飛びこむようなものです」
 「君! 火中の栗をひろい給うなかれ!」
 この時、魯粛は堂外にいたが、様子を見て、
 「これはいかん」と苦慮していた。
 孫権はやがて、諸員のごうごうたる諫言に、責めたてられて、耐えられじと思ったか、
 「考えておく。なお考える」といって、奥なる私室へ急ぎ足にかくれた。
 その途中を、廊に待って、魯粛はまた、自分の主張を切言した。
 「彼らの多くは文弱な吏と、老後の安養を祈る老将ばかりです。君に降服をおすすめするも、ただただ、家の妻子と富貴の日を偸みたい気もち以外に何もありはしません。決して、左様な惰弱な徒の言に過られ給わぬように、しかと、ゆるがぬ覚悟をすえて下さい。家祖孫堅の君には、いかなるご苦労をなされたか。また御兄君孫策様のご勇略はいかに。おふた方の血は正しくあなた様の五体にも脈々ながれているはずではございませぬか……」
 「離せ」
 ふいに、孫権は袂を払って、室の中へ身をひるがえしてしまった。後堂前閣の園をここかしこに、
 「戦うべしだ」
 「いや、戦うべからず」
 と喧々囂々、議論のかたまりを持って流れ歩いてくる一組が、すぐ近くの樹陰にも見えたからであった。 何せよ、議論紛々だった。一部の武将と全部の文官は、開戦に反対であり、一部の少壮武人には、主戦論が支持されていた。それを数の上から見れば、ちょうど七対三ぐらいにわかれている。

 私房にかくれた孫権は、病人のように手を額に当てていた。寝食も忘れて懊悩悶々と案じ煩っていた。東呉の国、興ってここに三代、初めての国難であり、また人間的には、彼という幸福に馴れた世継ぎが、生れて初めてここに与えられた大きな試煉でもあった。
 「……どうしたのです?」
 食事もとらないというので、呉夫人が心配して様子を見に来た。
 孫権は、ありのまま、つぶさに話した。当面の大問題。そして藩内の紛乱が、不戦主戦、二つに割れていることも告げた。
 「まだまだ、そなたは坊っちゃまですね、そんなことでご飯もたべなかったのですか、何でもないではありませんか」
 「この解決案がありますか」
 「ありますとも」
 「ど、どうするんですか」
 「忘れましたか。そなたの兄孫策が、死にのぞんで遺言されたおことばを」
 「……?」
 「――内事決せずんばこれを張昭に問え。外事紛乱するに至らばこれを周瑜に計るべし――と仰っしゃったではなかったか」
 「ああ……そうでした。思い出せば、今でも兄上のお声がする」
 「それごらんなさい。日頃も父や兄を忘れているからこんな苦しみにいたずらな煩悶をするのです。    ――内務はともかく、外患外交など、総じて外へ当ることは、周瑜の才でなくてはなりますまい」
 「そうでした! そうでした!」

 孫権は夢でもさめたように、そう叫んで、急にからりと面を見せた。
 「早速、周瑜を召して、意見を問いましょう。なぜ今日までそれに気がつかなかったのだろう」

たちまち彼は一書を認めた。心ききたる一名の大将にそれを持たせ、柴桑からほど遠からぬ鄱陽湖へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあって、日々水夫軍船の調練にあたっていた。(219話)

 

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