三国志(216) 孔明 呉へ |  今中基のブログ

 長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々と舷を洗う音のみ耳につく。
 船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡をさして下っている。――その途中、魯粛はひそかにこう考えた。
 「痩せても枯れても、玄徳は一方の勢力にちがいない。その軍師たり宰相たる重職にある孔明が、身に一兵も伴わず、まったくの単身で、呉へ行くという意気は けだし容易な覚悟ではない。 ――察するに孔明は一死を胸にちかい、得意の弁舌をもって、呉を説かんとする秘策をもっているものであろう」
 同船して幾日かの旅を共にしている内、彼は悲壮なる孔明の心事に同情をよせていた。けれどまた、
 「もし、孔明に説かれて、主君孫権が玄徳のために曹操と戦うような場合に立ち到るときは――勝てばよいが、負けたらその罪は?」
 と、責任が自分に帰してくることをも、多分におそれずにいられなかった。
 で、魯粛は、船窓の閑談中に、それとなく孔明に入れ智慧を試みたりした。
 「先生。――先生が孫権とお会いになったら、かならずいろいろな質問が出ましょうが、曹軍の内容については、何事も知らぬ態をしておられたほうが得策かも知れませんな」
 「どうして?」
 孔明は、魯粛の肚を読みぬいているように、にやにや笑っていた。
 「いや、どうといって、べつに深い理由はありませんが、あまり詳しいことを述べると、そう敵の内容をつまびらかに知っているわけはないから、曹操と同腹して、呉を探りに来たのではないか――などと疑われるおそれもありますからな」
 「ははは。そんなお人ですか、孫将軍は」
 魯粛はかえって赤面した。とうてい他人の入れ智慧などにうごかされる人物ではないとみて、魯粛もその後は口をつつしんだ。

 やがて船は潯陽江(九江)の入江に入り、そこから陸路、西南に鄱陽湖(はようこ)を望みながら騎旅をすすめた。
 そして柴桑城街につくと、魯粛は孔明の身をひとまず客館へ案内して、自身はただちに城へ登った。
 府堂のうちでは折しも文武の百官が集まって、大会議中のところだった。魯粛帰れり! とそこへ聞えたので孫権は、
 「すぐ、これへ」と、呼び入れて、彼にも当然、一つの席が与えられた。
 孫権は、さっそく訊ねた。
 「荊州の形勢はどうだった?」
 「よく分りません」
 「なに、分らぬ。――はるばる、江をさかのぼって、その地を通過しながら、何も見てこなかったのか」
 「いささか、所感がないでもありませんが、それがしの視察は別にご報告申しあげます」
 「むむ……そうか」
 と、孫権も敢て追及しなかった。そして手もとにあった檄文の一通を、
 「これ見よ」といって、魯粛へ渡した。
 曹操からの「最後通牒」である。われに降って共に江夏の玄徳を討つや。それとも、わが百万の大軍と相まみえて、呉国を強いて滅亡へ導くつもりなりや否や、即刻、回報あるべし――という強硬なる半面威嚇、半面懐柔の檄文だった。
 「このためのご評議中でございましたか」
 「そうだ。……早朝から今にいたるまで」
 「して、諸員のご意見は」
 「いまなお、決しないが……満座の大半以上は、戦わぬがいいということに傾いておる」
 そういって、孫権がふたたび沈吟すると、張昭そのほかの重臣は皆、口を揃えて、
 「もし、呉の六郡と、呉の繁栄とを安穏に保ち、いよいよ富強安民を計らんとするなれば、ここは曹操に降って、彼の百万の鋭鋒を避け、他日を期すしかありません」
 と、不戦論を唱えた。
 百万の陸兵だけならまだ怖れるに足らぬとしても、曹操の手には今、数千艘の水軍も調っている。水陸一手となって、下江南進して来た場合、それを防ぐには、呉の兵馬軍船も大半以上損傷されるものと覚悟しなければならない。
 不戦論を主張する人々は、こぞってその非を鳴らした。
 「たとえ勝ったところで、その消耗からくる国の疲弊は、三年や四年では取り返しつきますまい、降伏に如くなしです」
 評議は長くなるばかりだ。孫権の肚はなお決まらないのである。彼はやや疲れを見せて、
 「衣服をかえてまた聴こう」
 と席を立って殿裡へ隠れた。衣をかえるとは、休息の意味である。
 魯粛はひとり彼について奥へ行った。孫権は意中を察して、
 「魯粛。そちは最前、別に意見があるといったが、ここでなら言えるであろう。そちの考えではどうか」と、親しく訊ねた。
 魯粛は、重臣間に行われている濃厚な不戦論に接して、反感をそそられていた。その気持は、孔明に抱いていた同情とむすびついて、勃然と、主戦的な気を吐くに至った。

  「宿将や、重臣の大部分が、云い合わせたように、わが君へ降参をおすすめする理由は、みな自己の保身と安穏をさきに考えて、君のお立場も国恥も大事と考えていないからです。――彼らとしては、主君をかえて、曹操に降参しても、すくなくも位階は従事官を下らず、牛車に乗り、吏卒をしたがえ、悠々、士林に交遊して、無事に累進を得れば、州郡の太守となる栄達も約束されているわけです。それに反して、わが君の場合は、よくても、車一乗、馬数匹、従者の二十人も許されれば、降将の待遇としては関の山でしょう。もとより南面して天下の覇業を行わんなどという望みは、もう死ぬまで持つことはできません」
 当然、若い孫権は動かされた。彼はなお多分に若い。消極論には迷いを抱くが、積極性のある説には、本能的にも、血が高鳴った。
  「なお詳しい事は臣が江夏からつれてきた一客を召して、親しくそれにお訊ね遊ばしてご覧なさい」
  「一客とは誰か」
  「諸葛瑾の弟、孔明です」
  「お。臥龍先生か」
 孫権も彼の名は久しく聞いている。しかも自分の臣諸葛瑾の弟でもある。さっそく会いたいと思ったが、しかし、その日のこともあるので評議は一応取止め、明日また改めて参集すべし――と諸員へ云いわたした。
 次の日の早朝、魯粛は、孔明をその客館へ誘いに行った。前の夜から報らせがあったので、孔明は斎戒沐浴して、はや身支度をととのえていた。
 「きょう呉君にお会いになって、曹操の兵力を問われても、あまり実際のところをお云いにならないほうがよいと思います。何ぶん、文武の宿老には、事なかれ主義の人物が大半以上ですから」
 魯粛は、親切にささやいたが、孔明には、別に確たる自信があるものの如く、ただうなずいて見せるだけだった。
 柴桑城の一閣には、その日、かくと聞いて、彼を待ちかまえていた呉の智嚢と英武とが二十余名、峩冠をいただき、衣服を正し、白髯黒髯、細眼巨眼、痩躯肥大、おのおの異色のある威儀と沈黙を守って、
 (さて。どんな人物?)と、いわぬばかりに居並んでいた。
 孔明は、すがすがしい顔をして、魯粛に導かれて入ってきた。そして居並ぶ人々へ、いちいち名を問い、いちいち礼をほどこしてから、
 「いただきます」
と、静かに客位の席へついた。

 その挙止は縹渺、その眸は晃々、雲をしのぐ山とも見え、山にかくされた月とも思われる。
 (さてはこの人、呉を説いて、呉を曹操に当らせんため――単身これへ来たものだな)
さすが呉国第一の名将といわれる張昭は、じろりと瞬間に、そう観やぶっていた。
一同こもごもの挨拶がすむと、やがて張昭は、孔明に向って云った。
 「劉予州が、先生の草廬を三度まで訪ねて、ついに先生の出廬をうながし、魚の水を得たるが如し――と歓ばれたという噂は、近頃の話題として、世上にも伝えられていますが、その後、荊州も奪らず、新野も追われ、惨めな敗亡をとげられたのは一体どういうわけですか。われわれの期待は破られ、人みな不審がっておりますが」 さても皮肉な質問である。(216話)

 

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― 三国志 次週へ続く ―