三国志(217) 舌 戦 |  今中基のブログ

 孔明はじっと眸をその人に向け直した。
 張昭は、呉の偉材だ。この人を説服し得ないようでは、呉の藩論をうごかすことは至難だろう。――そう胸には大事を期しながら、孔明はにこやかに、
 「されば、――もしわが君劉予州が荊州を奪ろうとすれば、それは掌を返すよりたやすいことであったでしょう。けれど君と故劉表とは同宗の親、その国の不幸に乗って、領地を横奪するがごとき不信は、余人は知らず、わが仁君玄徳にはよくなさりません」
 「これは異なことを承る。それでは先生の言行に相違があるというものだ」
 「なぜですか」
 「先生はみずから常に自分を春秋の管仲、楽毅に比していたそうですが、古の英雄が志は、天下万民の害を除くにあり、そのためには、小義私情を捨てて大義公徳により、良く覇業統一を成しとげたものと存ずるが――いま劉予州をたすけて、今日の管仲たり楽毅たらんと任ずるあなたが、出廬たちまち前後の事情や私心にとらわれ、曹操の軍に遭うては、甲を投げ矛をすてて、僻地へ敗走してしまうなど、どう贔屓目に見てもあまり立派な図とは思われぬが」
 「はははは」
孔明は昂然と笑って、
 「いや、あなた方のお眼に、そう映るのは無理もありません。大鵬という鳥がある。よく万里を翔破します。しかし大鵬の志は燕雀の知る限りではない。古人もいっている――善人が邦を治めるには百年を期して良く残に克ち殺を去って為す――と。たとえば重い病人を治すには、まず粥を与え、やわらかな薬餌から始める。そして臓腑血気の調うのを待って、徐々、強食をすすめ、精薬を以てその病根をきる。――これを逆にして、気脈もととのわぬ重態に、いきなり肉食猛薬を与えたら、病人の生命はどうなりましょう。いま天下の大乱は、重病者の気脈のごとく、万民の窮状は、瀕死の者の気息にも似ている。これを医し癒さんに、なんで短兵急にまいろうか。――しかも天下の医たるわが劉予州の君には、汝南の戦にやぶれ、新野の僻地に屈み、城郭堅からず、甲兵完からず、粮草なおとぼしき間に、曹操が百万の強襲をうけ給う。これに当るはみずから死を求めるのみ。これを避けるは兵家の常道であり、また百年の大志を後に期し給うからである。――とはいえ、白河の激水に、夏侯惇、曹仁の輩を奔流の計にもてあそび、博望の谿間にその先鋒を焼き爛し、わが軍としては、退くも堂々、決して醜い潰走はしていません。

 ――ただ当陽の野においては、みじめなる離散を一時体験しましたが、これとて、新野の百姓老幼数万のものが、君の徳を慕いまいらせ、陸続ついて来たために――一日の行程わずか十里、ついに江陵に入ることができなかった結果です。それもまた主君玄徳の仁愛を証するもので、恥なき敗戦とは意義が違う。むかし楚の項羽は戦うごとに勝ちながら、垓下の一敗に仆るるや、高祖に亡ぼされているでしょう。韓信は高祖に仕え、戦えど戦えど、ほとんど、勝ったためしのない大将であるが、最後の勝利は、ついに高祖のものとしたではありませんか。これ、大計というもので、いたずらに晴の場所で雄弁を誇り、局部的な勝敗をとって功を論じ、社稷百年の計を、坐議立談するが如き軽輩な人では、よく解することはできますまい」
 ことばこそ爽かなれ、面こそ静かなれ、彼の態度は、微塵の卑下も卑屈もなかった。            張昭は沈黙した。さしもの彼も心を取りひしがれたような面持に見えた。
 一座やや白けたかと見えた時である。突として立った者がある。会稽郡余姚の人、虞翻、字は仲翔であった。
 「率直にお訊ねするの不遜をおゆるしありたい。いま曹操の軍勢百万雄将千員、天下を一呑みにせんが如き猛威をふるっておるが、先生には何の対策かある。乞う、吾々のために聴かせ給え」
 「百万とは号すが、実数は七、八十万というところでしょう。それも袁紹を攻めては、その北兵を編入し、荊州をあわせては、劉表の旧臣を寄せたもの、いわゆる烏合の勢です。何怖れるほどなものがありましょう」
 「あはは。いわれたりな孔明先生。あなたは新野を自燼し当陽に惨敗し、危うく虎口をのがれたばかりではないか。その口で曹操如きは怖るるに足らんというのはちとおかしい。耳をおおうて鈴を盗むの類だ」
 「いや、わが劉予州の君に従う者は、少数ながら、ことごとく仁義の兵です。何ぞ、曹操が残暴きわまる大敵に当って、自ら珠を砕くの愚をしましょう。――これを呉に較べてみれば、呉は富強にして山川沃地広く、兵馬は逞しく、長江の守りは嶮。然るにです、その国政にたずさわる諸卿らは、一身の安きを思うて国恥を念とせず、ご主君をして、曹賊の軍門に膝を屈せしめようとしておられるではないか。――その懦弱、卑劣、これをわが劉予州の麾下の行動と較べたら、同日の談ではありますまい」
 孔明の面は淡紅を潮している。言語は徐々、痛烈になってきた。
 虞翻が口を閉じると、すぐまた、一人立った。淮陰の歩隲、字は子山である。
 「孔明――」こう傲然呼びかけて、
 「敢て訊くが、其許は蘇秦、張儀の詭弁を学んで、三寸不爛の舌をふるい、この国へ遊説しにやってきたのか。それが目的であるか」
 孔明は、にこっとかえりみて、
 「ご辺は蘇秦、張儀を、ただ弁舌の人とのみ心得ておられるか。蘇秦は六国の印をおび、張儀は二度まで秦の宰相たりし人、みな社稷を扶け、天下の経営に当った人物です。さるを、曹操の宣伝や威嚇に乗ぜられて、たちまち主君に降服をすすめるような自己の小才をもって推しはかり、蘇秦、張儀の類などと軽々しく口にするはまことに小人の雑言で、真面目にお答えする価値もない」
 一蹴に云い退けられて、歩隲が顔を赤らめてしまうと、
 「曹操とは、何者か?」と、唐突に問う者があった。
 孔明は、間髪をいれず、
 「漢室の賊臣」と、答えた。
 すると、質問した沛郡の薛綜は、その解釈が根本的に誤謬であると指摘して、
 「古人の言にも――天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下である――といっておる。故に、尭も天下を舜に譲り、舜は天下を禹に譲っている。いま漢室の政命尽き、曹操の実力は天下の三分の二を占むるにいたり、民心も彼に帰せんとしておる。賊といわば、舜も賊、禹も賊、武王、秦王、高祖ことごとく賊ではないか」

 「お黙りなさい!」
 孔明は、叱っていう。
 「ご辺の言は、父母もなく君もない人間でなければいえないことだ。人と生れながら、忠孝の本をわきまえぬはずはあるまい。曹操は相国曹参の後胤で、累世四百年も漢室に仕えてその禄を食みながら、いま漢室の衰えるを見るや、その恩を報ぜんとはせず、かえって、乱世の奸雄たる本質をあらわして簒虐をたくらむ。――思うにご辺は天数循環の歴史を、現実の一人間の野望に附加して、強いて理由づけようとしておられるらしい。そういうお考え方もまた逆心といえる。借問す、貴下は、貴下の主家が衰えたら、曹操のように、たちまち主君の孫権をないがしろになされるか」
 呉郡の陸績、字は公紀。
すぐ続いて、孔明へ論じかけた。
「いかにも、先生のいわれる通り、曹操は相国曹参の後胤、漢朝累代の臣たること、まちがいない。――しかし劉予州は如何に。これは自称して、中山靖王の末裔とはいい給えど、聞説、その生い立ちは、蓆を織り履を商うていた賤夫という。――これを較ぶるに、いずれを珠とし、いずれを瓦とするや。おのずから明白ではあるまいか」
 孔明は、呵々大笑して、
 「オオ君はその以前袁術の席上において、橘をふところに入れたという陸郎であるな。まず安坐してわが論を聞け。むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なお殷に仕えていたので、孔子も周の徳を至徳だとたたえられた。これあくまで君を冒さず、臣は臣たるの道である。――後、殷の紂王、悪虐のかぎりを尽し、ついに武王立って、これを伐つも、なお伯夷、叔斉は馬をひかえて諫めておる。見ずや、曹操のごときは、累代の君家に、何の勲だになく、しかも常に帝を害し奉らん機会ばかりうかがっていることを。家門高ければ高きほど、その罪は深大ではないか。見ずやなおわが君家劉予州を。大漢四百年、その間の治乱には、必然、多くの門葉ご支族も、僻地に流寓し、あえなく農田に血液をかくし給うこと、何の歴史の恥であろう。時来って草莽のうちより現われ、泥土去って珠金の質を世に挙げられ給うこと、また当然の帰趨のみ。――さるを履を綯えばとて賤しみ、蓆を織りたればとて蔑むなど、そんな眼をもって、世を観、人生を観、よくも一国の政事に参じられたものではある。民にとって天変地異よりも怖ろしいものは、盲目な為政者だという。けだし尊公などもその組ではないか」
 陸績は胸ふさがって、二の句もつげなかった。
 昂然、また代って立ったのは、彭城の厳畯、字は曼才。
 「さすがは孔明、よく論破された。わが国の英雄、みな君の弁舌におおわれて顔色もない。そも、君はいかなる経典に依ってそんな博識になったか。ひとつその蘊蓄ある学問を聴こうではないか」
 と、揶揄的にいった。
 孔明は、気を揮って、それへ一喝した。
 「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだに、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」
 「こは、聞き捨てにならぬことだ。では、文は天下を治むるに、無用のものといわれるか」
 駁してきたのは、汝南の程秉であった。孔明は面を横に振りながら、
 「早のみ込みをし給うな。 学文にも小人の弄文と、君子の文業とがある。 小儒はおのれあって邦なく、春秋の賦を至上とし、世の翰墨を費やして、世の子女を安きに惑溺させ、世の思潮をいたずらににごすを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。  大儒の業は、まず志を一国の本におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそえ、味なき政治に楽譜を奏で、苦しき生活にうるおいをもたらし、暗黒の底に希望をもたらす。無用有用はおのずからこれを導く政治の善悪にあって、腐文盛んなるは悪政の反映であり、文事健調なる  ――その国の政道明らかなことを示すものである。 ――最前から各〻の声音を通して、この国の学問を察するに、その低調、愍然たるものをおぼゆる。  この観察はご不平であるや、如何に」
 すでに満座声もなく、鳴りを潜めてしまったので、ここに至って、こう孔明のほうから一問した。
 けれど、それに対して、もう起って答える者のなかった時、沓音高く、ここへ入ってきた一人物があった。一同、その一沓音にふりかえって、誰かと見ると、零陵泉陵の産、黄蓋、字は公覆といって、いま呉の糧財奉行、すなわち大蔵大臣の人物だった。
 ぎょろりと、大堂を見わたしながら、天井をゆするような声で、
 「諸公はいったい何しとるんかっ。孔明先生は当世第一の英雄じゃ。この賓客にたいし、愚問難題をならべ、無用な口を開いていたずらに腸を客に見するなど、呉の恥ではないか。主君のお顔よごしでもある。慎まれいっ」
 そして孔明に向っては、きわめて慇懃に、
 「最前からの衆臣の無礼、かならずお気にかけて給わるな。主君孫権には、はやくより清堂を浄めて、お待ちしておりまする。せっかくな金言玉論、どうかわが主君にお聴かせ下さい」
 と、先に立って、奥へ案内して行った。

 ばかな目を見たのは、むきになって討論に当った諸大将であった。もとよりこれは黄蓋が叱ったわけではない。誰か孫権へ告げた者があって、孫権の考えから、賓客のてまえ、こう一同にいわざるを得なくなり、黄蓋が旨をふくんできたものにちがいない。何にせよ、それからの鄭重なことは国賓を迎えるようであった。黄蓋と共に、魯粛も案内に立ち、粛々、中門まで通ってくると、開かれたる燦碧金襴の門扉のかたわらに、黙然、出迎えている一名の重臣があった。(217話)

 

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