三国志(208) 劉琮の死 |  今中基のブログ

 曹操はその中軍を進めて、宛城から樊城へ移っていた。
 入城を終るとすぐ、書を襄陽へ送って、
 「劉琮に対面しよう」と、申し入れた。
 幼年の劉琮は怖ろしがって、「行くのはいやだ」と、云ってきかない。そこで名代として、蔡瑁、張允、文聘の三人が赴くことになったが、その際、劉琮へむかって、そっと、すすめたものがある。
  「いま曹軍を不意に衝けば、きっと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕りきって油断しておりますから。――そこで、天下は荊州になびきましょう。こんな絶好な機会などというものは、二度とあるものではありません」
 これが蔡瑁の耳に入ったので、調べてみると、王威の進言だと分った。
 蔡瑁は怒って、
 「無用な舌を弄して、幼少の君を惑わすもの」          
 と、斬罪にしようとしたがのいさめによって、ようやく事なく済んだ。
 こんな内輪もめがあったのも、過日来、玄徳同情者の裏切りや脱走が続いて以来その後も、藩論区々にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥や党派の対立もからまって、荊州は今や未曾有な動揺をその内部に蔵していたからである。
 しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によって、率いて行こうと考えていた。――で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色諂佞をきわめたものだった。
 曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚に見おろしながら、
 「荊州の軍馬、銭糧、兵船の量は、およそどのくらいあるのか」と、たずねた。
 蔡瑁は、答えて、
 「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千余艘もあり、金銀兵糧の大半は、江陵城に蓄え、そのほか各地の城にも、約一年余ずつの軍需は常備してあります」
 と、つつむ所もなかった。
 曹操は満足して、
 「劉表は存命中、荊州王になりたがっていたが、ついに成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉琮は、いつかかならず王位に封じてやるぞ」と、約束した。

 この日、曹操はよほど大満悦だったとみえ、さらに、蔡瑁を封じて、平南侯水軍大都督とし、また張允を助順侯水軍副都督に任命した。
 ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然として帰って行った。
 「丞相は人を識らなすぎる。あんな諂佞の小人に高官を授けて、水軍を任せるおつもりだろうか」
 彼らの帰ったあとで、慨然と、はばからずこう放言していた者は、荀攸であった。
 曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇を歪めながら、荀攸のほうを見て、
 「われ豈人を識らざらんや!」と、耳あらば聞けといわぬばかりに云い返した。
 「わが手の兵は、すべて北国そだちの野兵山兵ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修などくわしく知るものはほとんどない。いまかりに彼らを水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまえばいい。――さりとは、荀攸も、人の肚の見えないやつだ」
 面と向っていわれたのとちがって、これはかえって耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまった。
 一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡夫人と劉琮のまえに出て、
 「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封じようなどと――曹丞相は上機嫌で申されました」などと細々話した。
 翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令て来た。蔡夫人は劉琮をつれて、江の渡口まで出迎え拝礼して、城内へみちびいた。この日、襄陽の百姓は、道に香華をそなえて、車を拝し、荊州の文武百官もことごとく城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。 曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとって、腹心の大将や武士に、十重二十重、護られていた。
 蔡夫人は、子の劉琮に代って、故劉表の印綬と兵符とを、錦の布につつんで、曹操の手へあずけた。
 「神妙である。いずれ、劉琮には、命じるところがあろう」
 曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱えて、入城の儀式はまず終った。式がすむと彼は、まず荊州の旧臣中からをよび出して、
 「予は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを衷心からよろこぶ」
 といって――江陵の太守樊城侯に封じた。
 以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲や傅巽を関内侯に封じた。 それから、ようやく、劉琮にむかって、
 「あなたは、青州へ行くがよい。青州の刺史にしてあげる」と至極、簡単に命じた。
 劉琮は、眉を悲しませて、
 「わたくしは、官爵に望みはありません。ただいつまでも亡父の墳墓のあるこの国にいたい」
 と、哀訴した。

 曹操は、にべもなく、かぶりを振って、
 「いやいや、青州は都に近い良い土地がら、ご成人ののちは、朝廷へすすめて、官人にしてあげる用意じゃ。黙ってゆかれるがいい」と、突っ放した。
 ぜひなく、劉琮は母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く泣くも生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立ったが、変りやすい人ごころというものか、つき従う供の者とて幾人もなく、ただ王威という老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守って行ったきりだった。
そのあとである。曹操はひそかに于禁をよんで、なにか秘密な命令をさずけた。于禁は屈強なものばかり五百余騎をひッさげて、直ちにあとを追いかけた。
 ここ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱にそめて、凄愴な殺戮は、彼らの手によって決行された。――蔡夫人や劉琮の車駕へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思うと、たちまち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺し、野を馳けまわった。
 老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残った者もなかった。
 于禁は四日目に帰ってきた。
 そのあいだ曹操は落着かない容子に見えた。しきりに結果を待ちわびていたらしい。

  「ただいま立ち帰りました。遠く追いつき、蔡夫人、劉琮ともに、かくの如く首にして参りました」
 于禁の報告に接して、初めてほっとした態である。劉表の血族は、これでほぼ絶えたに近い。運の末こそ哀れである。――曹操は一言、
  「よし」と、云ったきりであった。
 また彼は、多くの武士を隆中に派して、孔明の妻や弟などの身寄りを詮議させていた。(208話)

 

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