三国志(207) 玄徳の迷い |  今中基のブログ

 この大敗北は、やがて宛城にいる曹操の耳に達した。

 曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、
 「諸葛匹夫、何者ぞ」と、怒髪をたてて罵った。
 すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、新野、白河、樊城など、一挙に屠るべく大行動に移ろうとした時である。帷幕にあった劉曄が切にいさめた。
 「丞相の威名と、仁慈は、河北においてこそ、あまねく知られておりますが、――この地方の民心はただ恐れることだけを知って、その仁愛も、丞相を戴く福利も知りません。――故に玄徳は、百姓を手なずけて、北軍を鬼の如く恐れさせ、老幼男女ことごとく民のすべてを引き連れて樊城へ移ってしまいました。    ――この際、お味方の大軍が、新野、樊城などを踏み荒し、その武威を示せば示すほど、民心はいよいよ丞相を恐れ、北軍を敬遠し、その徳になつくことはありません。――民なければ、いかに領土を奪っても、枯野に花を求めるようなものでしょう。……如かず、ここはぜひご堪忍あって、玄徳に使いをやり、彼の降伏を促すべきではありますまいか。玄徳が降伏せねば、民心のうらみは玄徳にかかりましょう。そして荊州のお手に入るのは目に見えている。すでに荊州の経略が成れば、呉の攻略も易々たるもの。天下統一のご覇業は、ここに完ぺきを見られまする。――何をか、一玄徳の小悪戯に関わって可惜、貴重な兵馬を損じ、民の離反を求める必要がございましょうか」
 劉曄の献言は大局的で、一時いきり立った曹操にも、大いに頷かせるところがあった。しかし曹操は、
 「それなら一体誰を、玄徳のところへ使いにやるか」ということに なお考えを残しているふうだった。
 劉曄は一言のもとに、
 「それは、徐庶が適任です」と、いった。
 ばかをいえ――といわぬばかりに曹操は劉曄の顔をしり目に見て、
 「あれを玄徳のもとへやったら、再び帰ってくるものか」
 と、唇をむすんで、大きく鼻から息をした。
 「いやいや、玄徳と徐庶との交情は天下周知のことですが、それ故に、もし徐庶がご信頼を裏切って、この使いから帰らなかったりなどしたら、天下の物笑いになります。彼以外に、この使いの適任者はありません」
 「なるほど、それも一理だな」
 彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼びだして、おごそかに、軍の大命をさずけた。徐庶は、命を奉じて、やがて樊城へ使いした。
 「なに、曹操の使いとして、徐庶が見えたと」
 玄徳は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎え、
 「かかる日に、ご辺と再会しようとは」と嘆じた。
 語りあえば、久濶の情は尽きない。けれど今は敵味方である。徐庶はあらためていった。
 「今日、それがしを向けて、あなたに和睦を乞わしめようとする曹操の本志は、和議にあらず、ただ民心の怨嗟を転嫁せんための奸計です。これに乗って、一時の安全をはかろうとすれば、おそらく悔いを百世に残しましょう。不幸、自分はあなたの敵たる陣営に飼われる身となり、今は老母も死してこの世にはありませんが、もしこの使いから帰らなければ、世人はそれがしの節操を疑い、かつ嘲り笑うでしょう。――ぜひもない宿命、ただ今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする」
と、すぐ暇を告げ、なお帰りがけにもくり返していった。

  「逆境また逆境、さだめし今のお立場はご不安でしょう。しかし以前と事ちがい、唯今では、君側の人に、諸葛先生が居られます。かならずあなたの抱く王覇の大業を扶け、やがて今を昔に語る日があることを信じております。それがしは老母も死し、何一つ世のために計ることもできない境遇に置かれていますが、ただひとつ、あなたのご大成を陰ながら念じ、またそれを楽しみにしていましょう。
……では、くれぐれもご健勝に」
 徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、玄徳は、ふたたび、城を捨て、ほかに安らかな地を求めなければならなかった。
 せっかく誘降の使いをやったのにそれを拒絶したという報告を聞けば、曹操はたちまち、
 (民を戦禍に投じたものは玄徳である)
 と、罪を相手になすって百万の軍にぞんぶんな蹂躙を命じ、颱風の如く攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。
 「襄陽に避けましょう。この城よりは、まだ襄陽のほうが、防ぐに足ります」
 孔明のすすめに、もちろん、玄徳は異議もなかったが、
 「自分を慕って、自分と共に、ここへ避難している無数の百姓たちをどうしよう」
 と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。
 「君をお慕い申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までとついて来る可憐な百姓どもです。たとえ足手まといになろうと、引き具してお移りあるべきでございましょう」
 孔明のことばに、玄徳も、
 「さらば――」と、関羽に渡江の準備を命じた。
 関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、
 「われらと共に、ゆかんとする者は江を渡れ。あとに残ろうと思う者は、去って旧地の田を耕すがいい」と、云い渡した。
 すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に哭いて、
 「これから先、たとえ山を拓いて喰い、石を鑿って水を汲むとも、劉皇叔さまに従って参りとうございます。ついに生命を失っても使君(玄徳のこと)をお恨みはいたしません」と、いった。
 そこで関羽は糜竺、簡雍などと協力して、この大家族を次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。
 玄徳も、舟に移って、渡江しにかかったが、折もあれ、この方面へ襲せてきた曹軍の一手――約五万の兵が、馬けむりをあげて樊城城外から追いかけてきた。
 「すわや、敵が」と聞くなり岸に群れ惑う者、舟の中に哭きさけぶ者、あやまって河中に墜ちいる者など、男女老幼の悲鳴は、水に谺して、思わず耳をおおうばかりだった。
 「あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍いをかける。――我さえなければ」
 と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしていたが、突然、舷に立って、河中に身を投げようとした。左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。
 「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」
 と、人々に嘆き諫められて、玄徳もようやく死を思い止まった。
 関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶け、老幼を守って後から渡ってきた。かくてようやく皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽へ急いだ。
 襄陽の城には、先頃から幼国主劉そう、その母蔡夫人以下が、荊州から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て、

 「賢姪劉琮(けんてつりゅうそう)よ、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命を救われよ」と、大音をあげた。
 すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
 玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦くなるばかりだった。
 ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は魏延、字は文長、突如味方のなかから激声をあげて、        
 「劉玄徳は、仁人である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞い、国を売るの賊、汝らこそ怪しからん。――いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」と云い出した。
 蔡瑁は仰天して、張允に、
 「裏切り者を討て」と命じた。 時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや吊橋をおろし、
 「劉皇叔! 劉皇叔! はやここより入り給え」
 と、叫んでいる様子に、張允、文聘などが、争ってそれを妨げていた。
 城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、鼎の沸く如く、ただ事とも思われないので、
 「待て、しばし」と急に押し止め、
 「孔明、孔明。ここの進退は、どうしたらいいか」と、訊ねた。
孔明は、うしろから即答した。
 「凶血が煙っています。おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」
「えっ、江陵へ?」
 「江陵の城は、荊州第一の要害、銭糧の蓄えも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
 「おお、急ごう」
 玄徳が引っ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕っていた城中の将士は、争って、蔡瑁の麾下から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追って行く者、引きも切らないほどだった。
 そうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、巳の刻から未の刻の頃まで、なお戦っていた。
 そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに玄徳は遠く去ってしまったので、やむなくひとり長沙へ落ちて、後、長沙の太守韓玄に身を寄せた。
 さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、車駕担輿など雑然と続いて行く始末なので道はようやく一日に十里  
(支那里)も進めば関の山という状態であった。
 これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
 「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につつまれたら、ほとんど一人として生きることはできますまい。もうご決断を仰がなければなりません」
 と、眉に悲壮なものをたたえて玄徳にこう迫った。
 落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
  「背に腹はかえられません」
 孔明は諭すのであった。玄徳の仁愛な心はよく分っているが、そのため、敵の殲滅に会っては、なんの意味もないことになる。
  「ここは一時、涙を飲んでも、百姓、老幼の足手まといを振り捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、ついに曹軍の好餌となるしかありますまい」 というのであった。

 が――玄徳は依然として、
 「自分を慕うこと、あたかも子が親を慕うようなあの領民を、なんで捨てて行かれようぞ。国は人をもって本とすという。いま玄徳は国を亡ったが、その本はなお我にありといえる。――民と共に死ぬなら死ぬばかりである」と云ってきかなかった。
このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭いた。
さらばと、――孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾に、兵五百を分けて、
 「江夏におられる嫡子劉琦君(りゅうきくん)のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会いあるべしと、この書簡をとどけられよ」
と、玄徳の手紙を授けて、援軍の急派をうながした。(207話)


―次週へ続く―