三国志(209) 玄徳の危機 |  今中基のブログ

 曹操が孔明を憎むことはひと通りでなかった。
 「草の根を分けても、彼の三族を捕えてこい」
 という厳命を発している。命をうけた部将たちは、手下を督励して、かの臥龍岡の旧宅をはじめ近村あまねく捜し求めたが、どうしても知れなかった。すでに孔明はこの事があるのを知って、家族を三江の彼方へくらまし、里人も皆、彼の徳になついているので、曹操の捕手にたいして、何の手がかりも与えなかった。
 こんなことに暇どっている一方、曹操は毎日、荊州の治安やら旧臣の処置やら、また賞罰の事、新令発布の事など、限りもない政務に忙殺されていた。
 「丞相。――お茶など献じましょうか」と、或る折、侍側の荀攸は、わざと彼の繁忙を妨げて云った。
 「茶か。そうだな、一ぷく喫しようか」
 「忙裏の小閑は命よりも尊し――とか。こういう時、一喫の茶は、生命をうるおします」
 「ときに税務の処理は、片づいたか」
 「税務よりは、もっと急がねばならないことがおありでしょう」
 「何じゃ、そんなに急を要することとは」
 「玄徳以下の者が、ここを逃げ去ってから、もう十日余りとなります。彼らがもし江陵の要害に籠り、そこの金銀兵糧などを手に入れたら如何なさいますか」
 「あっ、そうだ!」
 曹操は、突然、卓を打って突っ立ちながら、
 「忙におわれ、些末に拘泥しておって、つい大局を見失っていた。荀攸! なぜ其方は、もっと早く予に注意しなかったのだ」
 「――でも、当の敵を、お忘れある筈はないと思っていましたから」
 「ばかをいえ。こう忙しくては、誰しも、つい忘れることだってある。早く軍馬の用意を命じ玄徳を追撃させい」
 「ご命令さえ出れば、決してまだ手遅れではありません。玄徳は数万の窮民を連れているので、一日の行程わずか十里という歩み方です。鉄騎数千、疾風のごとく追わせれば、おそらく二日のうちに捕捉することができましょう」

 荀攸はすぐ諸大将を城の内庭に集めた。令を下すべく曹操が立って見わたすところ、荊州の旧臣中で
は、ひとり文聘の姿だけが見えなかった。
 「なぜ文聘はこれへ来ないか」
と、呼びにやると、ようやく文聘はあとから来て、列将の端に立った。
 「何ゆえの遅参か。申し開きあらばいえ」
曹操から譴責されて、文聘は、愁然とそれに答えた。
 「理由はありません。ただ恥かしいのです。故劉表に託されて、自分は常に漢川の境を守り、もし、
外敵の侵攻あるとも、一歩も敵に主君の地は踏ませじ――と誓っていたのに、事志とたがい、遂に、今日の現実に直面するに至りました。――その愧を思えば、なんで人より先に立って人なかへ出られましょう」
さしうつ向いて、文聘は涙をたれた。曹操は感動して、
 「いまの言葉は、真に国へ報じる忠臣の声である」       
 といって、即座に彼の官職をひきあげて、江夏の太守関内侯とした。
 そして、まず、玄徳追撃の道案内として、文聘にそれを命じ、以下の大将に鉄騎五千をさずけて、
 「すぐ行け!」とばかり急きたてた。 
 数万の窮民を連れ歩きながら、手勢はわずかに二千騎に足らなかった。千里の野を、蟻の列が行くような旅だった。道の捗らないことはおびただしい。
 「江陵の城はまだか」
 「まだまだ道は半ばにすぎません」
 襄陽を去ってから、日はもう十幾日ぞ。――こんな状態でいったらいつ江陵へ着くだろうと、玄徳も心ぼそく思った。
 「さきに江夏へ援軍をたのみにやった関羽もあれきり沙汰がない。――軍師、ひとつ御身が行ってくれないか」
 玄徳のことばに、孔明は、
 「行ってみましょう。どんな事情があるかわかりませんが、この際は、それしか恃む兵力はありませんから」と、承知した。
 「ご辺が参って、援軍を乞えば、劉りゅうきくんも決して嫌とは申されまい。――ご辺の計らいで、継母蔡夫人の難からのがれたことも覚えておられるだろうから……」
 「では、ここでお別れしましょう」
 孔明は兵五百をつれ、途中から道をかえて、江夏へいそいだ。

 孔明と別れてから二日目の昼である。ふと、一陣の狂風に野をふりかえると、塵埃天日をおおい、異様な声が、地殻の底に鳴るような気がされた。
 「はて、にわかに馬のいななき躁ぐのは――そも、何の兆だろう」
 玄徳がいぶかると、駒をならべていた糜芳、糜竺、簡雍らは、
 「これは大凶の兆せです。馬の啼き声も常とはちがう」と呟いて、みな怖れふるえた。
 そして、人々みな、
 「はやく、百姓どもの群を捨て先へお急ぎなさらねば、御身の危急」
 と、口を揃えてすすめたが、玄徳は耳にも入れず、
 「――前の山は?」と、左右に訊いた。
 「前なるは、当陽県の水、うしろなる山は景山といいます」
 ひとりが答えると、さらばそこまでいそげと、婦女老幼の群れには趙雲を守りにつけ、殿軍には張飛をそなえて、さらに落ちのびて行った。

 秋の末――野は撩乱の花と丈長き草におおわれていた。日もすでに暮れかけると、大陸の冷気は星を研き人の骨に沁みてくる。啾々として、夜は肌の毛穴を凍らすばかりの寒さと変る。 真夜中のころである。
 ふいに、人の哭きさけぶ声が、曠野の闇をあまねく揺るがした。――と思うまに、闇の一角から、喊声枯葉を捲き、殺陣は地を駆って、
 「玄徳を逃がすな」
 と、耳を打ってきた。
 あなや!とばかり玄徳は刎ね起きて、左右の兵を一手にまとめ生命をすてて敵の包囲を突き破った。
 「わが君、わが君。――はやく東へ」
 と、教えながら、防ぎ戦っている者がある。見れば、後陣の張飛。
 「たのむぞ」
 あとを任せて、玄徳は逃げのびたが、やがて南のほう――長坂坡の畔りにいたると、ここに一陣の伏兵あって、
 「劉予州、待ちたまえ、すでにご運のつきどころ、いさぎよくお首をわたされよ」
 と、道を阻めて、名乗り立った一将がある。
 見れば、荊州の旧臣、文聘であった。彼は、義を知る大将と、かねて知っていた玄徳は、
 「おう足下は、荊州武人の師表といわれる文聘ではないか。国難に当るや直ちに国を売り、兵難に及ぶやたちまち矛を逆しまにして敵将に媚び、その走狗となって、きのうの友に咬みかかるとは何事ぞ。その武者振りの浅ましさよ。それでも足下は、荊州の文聘なるか」と、罵った。
 ――と、文聘は答えもやらず、面を赤らめながら遠く駆け去ってしまった。次に、曹操の直臣許緒が玄徳へ迫って来たが、その時はすでに張飛があとから追いついていたので、辛くも許緒を追って、一方の血路を切りひらき、無二無三、玄徳を先へ逃がして、なお彼はあとに残って、奮戦していた。

 しかし、張飛の力も、無限ではない。結局、一方の敵軍を、喰い止めているに過ぎない。
 その間に、なおも、玄徳を目がけて、
  「 遁さじ」 「やらじ」
 と、駆け追い、駆け争って来る敵は、際限もなかった。逃げ落ちて行く先々を、伏兵には待たれ、矢風は氷雨と道を横ぎり、玄徳はまったく昏迷に疲れた。睫毛も汗に濡れて、陽も晦い心地がした。
  「ああ。――もう息もつけぬ」
 われを忘れて、彼は敢て馬からすべり降りた。五体は綿のごとく知覚もない。
  「……おお」
 見まわせば、つき従う者どもも、百余騎しかいなかった。彼の妻子、老少を始め、糜竺、糜芳、趙雲、簡雍そのほかの将士はみな何処で別れてしまったか、ことごとく散々になっていたのである。
  「百姓たちはどうしたか。妻子従者の輩も、一人も見えぬは如何にせしぞ。たとい木石の木偶なりと、これが悲しまずにおられようか」
 玄徳はそういって、涙を流し、果ては声をはなって泣いた。 ――ところへ……糜芳が満身朱にまみれて、追いついてきた。身に立っている矢も抜かず、玄徳の前に膝まずいて、
  「無念です。趙雲子龍までが心がわりして、曹操の軍門に降りました」
 と、悲涙をたたえて訴えた。(209話)

―次週へ続く―