酈生は斉王・田横と同盟を結ぶが、韓信軍は敢えて占領。仕組まざる攻略法となった。 |  今中基のブログ

 臨淄ははなはだ富んで充実している。
 その民は笛を吹いたり、瑟を鼓したり、筑を撃ったり、琴を弾じたりして、よく遊ぶ。そのほか闘鶏、闘犬のたぐいに興じてばくちを打つ。
 街路は車や人でごったがえし、車は衝突しそうにして往来しているし、ひとびとは肩をすれあわせて往き交い、見ているとお互いの袂で幕ができているようであるし、お互いの汗でもって雨が降るようである。
 一大消費都市としての当時の臨淄が目に見えるようであり、郦食其(酈生)の両眼が見ている臨溜は秦帝国の統制を経ているため経済も文化もやや衰えた観はあるが、それでも戦国の割拠経済のころの代表的な消費都市であったにおいを失ってはいない。

 宮殿の前で、宰相田横の出迎えをうけた。
 (おお、これが音にきく田横か)
 酈生(郦食其)は、自分の使命と、その使命が刺激になってつくりあげた脳裏の大小の景色に酔うような気持になっていた。千里に使いして君命を辱しめず、というが、一個の男子としてこれほど栄誉ある仕事をするというのは、歴史に照らしても稀有なことではないか。
 その上、その君命の内容たるや、劉邦の思想でなく、酈生の思想で出来上がっているのである。国家と国家の間は利益ではなく道義で結ぼうというもので、利を廃し義に就く限り戦いはせずに済む、という儒教的理想が、この任務を仕遂げることによって成就するのである。
 その大芝居の相手が、宰相田横であった。田横に対し、酈生が、同志愛以上の思いを込めて抱きつきたいほどの衝動におそわれたのは、それがためであった。田横も酈生に対し、全身で好意を示し、手をとって宮殿のなかに案内した。
 すぐさま斉王に拝謁した。かつて田広と呼ばれていたこの青年は、白皙長身の上に眉目が涼やかで、王としての威厳にはやや欠けるところがあったが、そのぶんだけ人懐っこく、
 「酈先生」とよびかけてくるとき、敬慕が目に宿って、酈生はあやうく涙ぐみそうになった。
 (劉邦とは、大変なちがいだ)
 かの漢王の儒者ぎらいは有名だが、儒者以外の誰に対しても態度がぞんざいで口ぎたなく、およそ気品というものがない男であったが、それにひきかえ、この斉王はどうであろう。  
 (これが王というものだ) 酈生はおもった。
 「先生、まず宿館で旅塵をおとされよ」田横はみずから宿所に案内した。
建物といい、調度といい、王宮のような感じがした。酈生はそこで旅塵をおとし、衣類を着かえた。夜は、酒宴であった。 斉王は出なかったが、田横以下、斉の実力者が総出で接待をした。酈生が連れて来た随員、事務官、軍人、車駕の駆者から人夫に至るまで、階級ごとに斉からそれに相応する階級の吏僚が出て各所で酒宴がもたれた。
 酒宴は、3日つづいた。
 この間に、酈生の意見だけでなく、各級の随行者の肚の中が、ことごとく斉側にわかった。 4日目に、酈生が斉王に拝謁してその意見を開陳したときには、ほぼ斉のほうに、この同盟についての漢の考えの表裏がつかみとられていた。
 「斉は、万世ののちまで栄えねばなりませぬ」酈生はまず言い、以下、華麗な修辞と堅牢な論理をもって展開した。
 「そのためには、天下の帰するところを知らねばなりませぬ。大王よ、ご存知でありますか」 「知らない」斉王は、真剣な表情でいった。
 「それはこまったことです。大王にして天下の帰するところをご存知ならば、斉国の安全は保たれます。そうでなければ、たとえ斉が百万の精鋭を保有していようとも安全は期しがたい ことです」「天下はどこに帰するのだろう」「漢に帰します」
 酈生が断言し、斉王は目におどろきをうかべた。
 「先生、どうか斉のためにその理由をお聞かせ願えまいか」
 実のところ、劉邦は弱く、項羽は強い。天下はもはや楚に定まったようなものであり、いまさら漢が勝つなどといって も詭弁のようなものである。
 斉は、独立を保っている。
 しばしば楚から脅威をうけてきたし、項羽自身が大軍を率いて斉へなだれこんできたこともある。とうてい楚には敵しがたいという恐怖を斉の士民は骨がふるえるほどの実感しているが、その楚がどうして終局において漢に敗けるというのであろう。

 酈生は、長広舌をふるった。
 楚と漢の両者の優劣をこまかくあげつつ、楚の致命的欠陥を拡大して述べたてた。項羽が狭量で賢才を用いないこと、その性は残忍であまりにも多くの人間を殺してしまっていること、とくにおのれが担ぎ上げた懐王を殺して世間の人々に興醒めさせてしまったことなどをあげた。
 「漢王はそれに対し、まったく正反対の人格をもっております」
 義を重んじ、賢才に対し海のように懐ろがひろく、しかも人を殺すということを好まない、と酈生はいう。このことは劉邦のもって生まれた性格なのかどうか。
 多分にかれの世間像としての人格であろう。一方において項羽の個性とそれによる行為が際立ちすぎている。
 それがために、その対立者である劉邦の人格がその反対の性格として世間によってつくられはじめ、劉邦自身もその機微を察し、意識的にその世間像としての自分を演出してきたともいえる。もっとも劉邦は可塑的な----細工するには粘土のようにどんな形にもなりやすい性格を生まれつき持っていたということも、あわせて言えるが。  が、このような優劣論は項羽のほうに力点を置いても十分展開できることで、斉王も田横らも、ただ生のゆたかな修辞法を芸術として鑑賞するという態度を取り続けていた。
 ただ、酈生はその開陳のなかで、食糧にふれた。食糧において漢が圧倒的に有利であるという実証をして行ったとき、斉王も田横も、なるほど、という、陽が射したような表情になった。
 すかさず酈生は、「それにひきかえ、楚は、兵の食糧の補給に難渋しています」と言い、遠く南方の楚の米作地から老人(壮者は兵として狩り出されているために)が延々と列をなして前線へ穀物を運んでいます、と言った。
 だいたい、項羽には補給の感覚がないのです、と酈生はつけ加えた。亡秦が貯えた天下第一の穀物倉である敷倉を手に入れたときも、これを守るのに小人数の囚人部隊を置いただけでした、だから漢に奪還されたのです、というが、その後楚軍が滎陽・成皋を陥としたときに敖倉も奪い返したという事実は、酈生は伏せた。
 このあと酈生は宿舎に帰って休息した。その間、斉王と田横らは漢に味方することに決し、夕刻、酒宴を用意して酈生とその随員団を招いた。
 斉の美人が多数宴席にはべった。「愉快だ。この世でこんな快事があろうか」
 酈生はしたたかに酔いくらった。斉王も田横もよほどうれしかったらしく、前線の守りを撤収し、兵の多くを故郷に帰し、将官は臨淄にもどってきた。
 酒宴は幾日もつづいた。斉の儒者が招く宴もあり、前線から帰ってきた将軍たちが主人役の宴まであって、宴の予定がいつ尽きるとも知れなかった。

 その尽きぬうちに、酈生は斉王によって謀られてしまった。
 豚などを烹る料理用の大きな青銅製の鼎を臨淄の町の広場に据え、水を張り、素裸の酈生を放り込んで、下から火を焚くのである。
 韓信の軍が黄河の西方にあらわれたという報が斉の宮廷に入ったのと、大挙して渉ったという報とが、相次いだ。無防備の平原城はたちまちに陥ち、歴城も半日で韓信の有になった。あとは潮のように臨淄にせまろうとしている。
 斉王も田横も、これを関連した一つの詭計とみた。酈生がだましにきて斉人に油断させ、その隙に韓信が攻めこむ、ということであり、結果としてはそうに違いない。
 が、酈生はそのつもりではなかった。韓信にもそのつもりはなかった。
 かれは行軍してきて斉に近づいたとき、かねて斉に放ってあった諜者たちが相次いで戻って来て酈生が臨淄にきていることを告げ、その用件が和平会談であること、その結果、和平に決した、ということなども、次々に報じた。
 「では、軍を趙の地でとどめよう」 韓信は、一旦そのように決定し、そのあと気を変えさせられた。変えさせたのは韓信の幕営にあらたに加わった、蒯通という縦横家であった。かれは古い戦国の世の詭弁や詭計がまだ通用するものと信じ、多年研究してそれに関する81編の文章を書いている。
 ただそういう縦横術を劉邦や項羽は用いてくれず、混乱の世をさまよっていたが、ついに韓信を見出し、その謀士となった。
 韓信という軍事的天才は、脳のその部分だけ白っぽいほどに政略の感覚に欠けていた。かれは蒯通の縦横術を政略術だと思い、深く信じた。
 「酈生は、腐れ儒者にすぎません」と、蒯通はまず言い、
 「なるほどかれは舌一枚でもって斉をくだしてしまいました。しかし、かれの成功を賞揚すれば軍事が軽んじられるようになります。すなわち将軍の功など、儒者の舌一枚にも劣るということになれば漢そのものが腐敗しましょう。いま斉を攻めれば漢の精は救われ、攻めねば漢に及ぼす無形の災禍は計り知れませぬ」 と、結んだ。
 韓信は蒯通の意見を容れ、平原の津をわたってしまったのである。
 斉王も田横も、散り散りに逃げるしかない。逃げるにあたり、「この嘘つきめ」 と、酈生を罵ったあげく、釜茹でにする。
 酈生は、烹られ、斉王も田横も戦わずして逃げ、斉は韓信によって占領された。これにより漢は勢力を増すことになるが、結果的には仕組まざる攻略法となった。

 ―次週へ続く―