修武の東に小修武という町がある。劉邦はそこへ補給基地を移し、町に兵糧を集積し、かれ自身の軍営は城内に置かず、その南の黄河の岸ちかくに置いた。
対岸の成皋城はすでに陥ちている。漢軍の将兵は四方に逃げ散っていたが、やがて劉邦が北岸にいることをきき、群れごとに集まってきた。最初の軍議のとき、劉邦は威勢よくいった。黄河を渡ってふたたび項羽と決戦しようというのである。冗談ではなかった。
郎中(政務官の一つ) の鄭忠という者がすすみ出て、その不可を説いた。今は塁を高くし、塹を深くし、兵力の充実をはかるべきである、という。むろん劉邦もそう思ったが、この場合、威勢のいいことをいわねば士気がふるわないという事情があった。
「鄭忠はそう思うか」劉邦はもう一度きいた。「命を賭しても諫めとうございます」
「ああ」
劉邦は辞色をあらため、鄭忠のことばに順おう、といった。
ただし、この場合、何もせずに守勢をたもつことも危険だった。劉邦が北岸で逼塞していることによって項羽軍はいよいよ肥り、いよいよ強勢になってしまう。
このため、劉邦は大規模な後方攪乱軍を出すことにした。
楚の後方の根拠地 (揚子江沿岸)を衝くのである。楚軍はその多湿な稲作地帯からはるかに兵糧を得ており、これが弱点といえばそういえた。それを攪乱し、遮断し、項羽の注意をその方面にむけさせる。項羽は全力を第一線に展開しているため後方は空っぽだった。
この長駆して南方の楚の地へゆく機動軍の将としては、有能でなくとも忠実な者をえらんだ。幼な友達の盧綰と、父方の従兄の劉賈を任命し、すぐ出発させた。
一方、東の方面については、韓信とその2千人がすでに向かっている。
いまひとつ、秘密工作があった。 老儒者酈生を使うことであった。
酈生については、劉邦の幕営でも、とかくの批判がある。
張良などは、「あの爺さまは、生き急いでいるのではないか」といったりした。
通称酈生---酈食其---が高陽 (河南省)の町の門番だったことはすでにふれた。乱世に際会せねばまぎれもなく田舎儒者で生涯をおえたにちがいない。当時、秦軍が強盛であった。劉邦は諸方の敗残兵をかきあつめては各地に転戦していた。劉邦が高陽の町を通過したとき、酈生が、いかにも沛公(劉邦)は大度量の長者だ。と見て、その帷幕に投じたのである。
「私の町を通過してゆく将軍が多く、見ていてどの男も大したことはなかった。あなただけが人の意見を容れる度量があると思って投じたのです」と、恩着せがましくいった。
こういう種類の人間は、ひろく「客」とよばれている。客は主将に対し、意見、情勢分析、政略、情報という無形のものをあたえる存在で、主将は客を「先生」として尊重し、かれらがあたえる無形のものを高く評価する。
酈生が最初に劉邦にあたえたのは意見ではなく情報であった。
「このさきに陳留 (河南省) がある、そこに秦が多量の穀物を貯えてきたが、将軍はかの城を攻め、穀物をおさえるべきです、その攻略にはこういう工夫があります」
といった。
劉邦はその説によって陳留を攻め、食糧を得た。食糧を得たことで集まってくる兵がふえ、たちまち大軍になった。
----あいつはただの儒者じゃない。
と、劉邦がありがたがったのは、儒者というのは役にも立たぬ屁理屈をこねるものと思っていたからである。劉邦は、恩賞については気前がよかった。酈生をたちまちひきあげ、広野君にした。が、儒者嫌いと無作法で通った劉邦は、酈生をかならずしも尊んでいたわけではなく、
「おい、おしゃべり」
といったふうに、よびかけたりした。
酈生は、しばしば献策した。「献策が多すぎる」という評があり、そのとおりでもある。そのうえ3つに2つまでは愚にもつかぬ策であった。しかも困ったことにその愚案に劉邦が----酈生のすぐれた修辞の力のために----しばしば乗せられ、あとで張良が大苦労して尻ぬぐいせねばならぬことが多かった。
(酈生も、こまったものだ)
と張良は肚の中でおもっているが、しかし他の者のように思案であるとは思っていなかった。つまり、酈生は劉邦の力を借りて儒教的理想を実現しようとしている。
その下心が露骨に出た案の場合、つねに現実にあわず、宙に浮いたようなものになるだけのことで、それだけのことだ、と老荘家の張良はおもっている。
酈生は老来、その下心が露骨になってきているように思われる。生きいそいでいる、と張良がひそかに思っているのはそういう観察から出たものであった。
が、酈生自身は、そうはおもっていない。
(韓信が可哀そうだ) というのが、このたびの案の発想のもとなのである。
斉は、強国であった。
(わずか二千の兵で斉一国をとろうというのは、卵を投げて石垣をくずそうというにひとしい。韓信は斉の戦場で死ぬだろう)
斉は、田氏の国である。秦にほろぼされ、田姓の王族たちは庶民になった。このたびの乱に乗じ、田信という者が詐略をもって狄県(山東省)の県令を殺し、「私は旧王家の血をひいている。今日から斉王である」といって自立し、四方を切りとった。
が、この男は秦の章邯将軍と戦って敗死した。以後、田氏の内部で権力闘争がはげしく、さまざまな田姓の者が王になったり宰相になったりした。今は田のいとこの子の田広が斉王になり、田横という歴戦の武将が宰相になっている。実権はこの田横にあった。
「田横は、人望のある男です」
酈生は、劉邦に説いたのである。
田横はよく賢者を用い、士を愛し、民を治めるのに手厚いために、斉はこの乱世にあってよくおさまっている。人望については後日譚がある。
後年、かれは自分の名誉をまもるために旅先で自殺した。そのとき同行していたかれの2人の「客」は田横が死んだことを知ると、あとの始末をして2人ながら剄ねて死んだ。
その時期、田横はいまの遼東半島にちかい島にかつての士をひきいて隠遁していたが、旅先での田横の死がつたわると、5百人の士のほとんどが自殺したといわれる。
「田横は儒徒です。私には多少の面識があり、ゆけば会ってくれるでしょう。陛下が私を使者にしてくださるなら、これに説くに不戦をもってします。漢に味方すれば兵の血を流さずに斉国は安泰だということをこの3寸の舌で説いてみましょう」
「お前の舌一枚で斉の七十余城が漢の味方になるというのか」
勢いのいい時期の劉邦なら一笑に付したろう。
戦国のころ、合従策を説いた蘇秦、連衡策を説いた張儀などがあらわれ、その雄弁と奇計をもって諸国の王に説き、おもうがままにころがした。
この両人以後、この種のケレンに富んだ外交技術を研究する学派を縦横家という。舌一枚で国の方針が左や右にころぶというなど遠い戦国のころの昔ばなしで、こんにちに通用するはずがない。
「お前は儒者のくせに縦横家のまねをするのか」
「縦横家のように道義のないことは致しません。儒者として斉王と田横に説いてみようと思うのです」(やらせてみるか)
とおもったのは、失策ってもともとであるし、この逼迫した状況下では一筋のからでも手をのばしてつかみたかった。
斉が大変な国だということは、劉邦もわかっている。斉の70余城が本気になって防戦すれば30万の兵をもってしても平定に一年以上かかるだろう。
「行ってみろ」と、劉邦は、思い切ったようにいった。すぐさま印璽を持って来させ、斉王への親書を書いた。 行軍中の韓信へはこの1件を告げなかった。韓信が、途々兵をふやして斉を伐ち得るまでには、よほどの月日がかかると劉邦は見たのである。
酈生は老人のくせに足腰のかるい男であった。
翌々日、車馬と人数を仕立てて修武を出発した。
一行は、護衛兵や人夫を入れて2百人を越えた。随員のなかに、田横と親しかった者や斉の事情通が数人ふくまれていたことは言うまでもない。
「聖人、賢人の国へゆくのだ」
と、儒者である酈生はよろこんでいた。いまの山東省は、陬において孔子を生み、鄒において孟子を生んだが、酈生はそれを指しているのである。
そのわりには、
----住民は権変、詐謀にたけている。
といわれる。田氏の王族間のあらそいを見ていると、政敵に対する憎しみは外敵よりもはなはだしく、血で血を洗う凄惨さは斉の特徴ともいえた。だからこそ酈生にとって一層やり甲斐があるといっていい。
黄河のながれ----とくに中流から下流にかけて----は、時代によって異なっている。以下、現在の地名でいう。潼関から 鄭州・開封のあたりまでは東流する。このあたりで曲がって東北方角にながれるのだが、この時代、現在よりもやや北のほうをながれて河口も異なっていた。いまの天津付近で渤海湾にそそいでいたのである。
酈生の一行は、韓信が平定した趙の地を通り、徳州という町のあたりから河水をかった。 斉は、黄河を天然の防禦線にしている。
対岸は、平原という大きな城廓をもつ町である。平原城は斉にとって第一線の要塞で、兵士が城の内外に充満していた。
「漢王の使者酈食其」
という名は、酈生が下交渉のために先発させた外交団によって斉の地によくつたわっている。斉王は、
「漢の広野君(酈生)の車馬が見えれば、大切な使者であるから、鉾を横たえ、道をひらいてお通しせよ」
と、黄河防衛の司令官たちに命じていた。酈生の見るところ、斉は臨戦気分に満ちていた。兵力のすべてを黄河の一線に展開しているらしく、軍容の密度は濃く、どの士卒の顔も緊張していた。
「これは、なにごとですか」
酈生が平原城守備の将軍にきくと、漢の韓信が攻めてくるというのでこのように固めているのだ、貴殿は漢王の使者というのにそのことをご存じないのか、と切りかえしてきた。
(とげがある)
酈生は緊張したが、顔だけはのびやかに作って、
「知っている。しかしその情報は古すぎる」 と、いった。
もっとも斉人にとっては古すぎない。韓信が修武で劉邦に叱られ、尻を蹴飛ばされるようにして斉にむかったという諜報が 10日後には斉に入っている。以後、斉は全土が至厳の警戒態勢に入り、いつ韓信がきてもこれを殲滅する準備ができていた。
「いや、全権は私にある。私は斉のために平和をもたらしにきたのだ」
酈生は平原城で言い、そのあと斉の護衛兵にまもられて首都にむかった。
次いで、第2線の要塞ともいうべき歴城(山東省・今の済南市)という巨大な城壁をもつ町を通過した。
(斉人は国外の人間に対し悪がしこいというが、決してそうではない。国をまもる念がつよすぎるのだ。こういう国を相手に戦争すべきではない)酈生はおもった。 ついに斉の国都臨淄(山東省)にいたった。道をいそいで遠望すると、ひくい丘陵の上の城壁が高く長く、中原の東における最大の都市といわれる評判のとおりの威容が感じられた。
城外で斉王の使者の出迎えをうけ互いに前後し、互いに旗をなびかせ勢いよく城門を入った。城内は、なるほど繁華であった。(臨淄の栄華は、蘇秦のむかしから変わらないと見える)
―次週へ続く―