韓信の剛に柔軟な思考をもたらせた蒯生。 |  今中基のブログ

 蒯通の蒯など、文字としても姓としてもなじみが薄い。が、この当時、

 「蒯の町の蒯だ」
 といえば、黄河ぞいに住む人なら、あああの河水にのぞんだ土地か、とうなずく。のちの洛陽 (河南省) のそばにあった土地の名である。
 蒯通はその地名を姓としているが、うまれは今日の河北省涿県―この当時の范陽―である。
 知識人のことを、「生」と尊称するが蒯通も、ふつうは蒯生とよばれている。儒家の酈食其老人が酈生とよばれていたようなものであった。酈生の場合、いわば権謀学派というべきもので、思想上の底は浅い。その技術は権変――政略的けれん――にあり、一国の膨脹と自衛のために外交上の権謀術数の限りを尽くそうというもので、思想上の理想社会は持たなかった。
 「策士」とよばれるものであった。
 策士は、みずから王や帝になれないし、なろうともしない。この学派のひとびとは王や帝になれそうな素材を探し出し、その者に食い入り、その者のために表裏の工作をし、権変の限りを尽くしてその者を広大な領土の支配者に仕立てあげるという政治の魔術師のことである。

 ----韓信ほどみごとな素材はない。と、蒯生は思った。
 その天才的な軍事能力によって韓信は趙をくだして先輩の張耳を趙王にし、次いで燕と代をあわせ、さらに斉に入ってその70余城をくだし、斉の旧都臨淄 (山東省)に総司令部を置いた。その版図を現代の省名でいえば古来中原とよばれる河南省と河北省を併せてさらに山東省を加えたもので、はるか南の、現在の隴海鉄道ぞいに死闘をくりかえしている漢の劉邦や楚の項羽よりも大きかった。(当の韓信は自分の大きさに気づいていないのだ)
 蒯生はそう思っている。韓信の立場は劉邦の一将軍であるに過ぎず、これについて蒯生が困ったものだとあきれているのは、韓信自身が正直にそう思っている、ということであった。
 蒯生はあるとき韓信に謁し、縦横学とは何かということを弁じたことがある。
 「国家――勢力といってもよろしいが――というものを考えられよ。国家には実態と虚態があります。彼我の実態と虚態をさぐり、それを記号にしたり数式にしたりしてそれぞれの力を量ります。その上で相手国の意図を察し、意図に裏打ちされた力を量り、その力の出端を執って自国の意図や力に吸収させてしまう術もしくは学を縦横の学というのです」「アア」韓信はあごをあげて返事するだけで、興味を示さない。「将軍よ」蒯生は韓信を自覚させようとする。
 「あなたの勢力の虚とは何か、漢の一将軍に過ぎぬということです」
 「事実、そうではないか。わしが漢王劉邦の一将軍であることはまぎれもない事実で、あなたの用語でいう実というものだ」
 「いや、私の学問ではそれは虚なのです。私のいう実とは、あなたが事実上、趙、燕、代、斉を併せた大王で、劉邦どのや項羽どのに匹敵するということです」
 「いやなことを言うわい」韓信は乗って来ず、「縦横の学とは要するに謀叛学なのか」
 といった。
 「他の学派からみれば謀叛でしょう。しかし私の学派からいえばかならず成功する謀叛で、成功してしまった謀叛というのは謀叛にならないのです。亡秦からいえば項羽どのも劉邦どのも謀叛人ですが、それを罵る主体である秦が滅ぼされてしまっている以上、この両将は謀叛人にはならないのです。縦横とはそう いうことを扱う学問です」
 「こわい学問だ」

 「なぜですか」
 「老儒の蒯生は、あなたの縦横の法によって烹殺されてしまった」
 酈生は劉邦の外交官として斉へゆき、斉王に説くに漢との同盟をもってした。斉王はよろこび、国境の武備を怠ったところ、おなじく劉邦から斉への武力進攻を命ぜられていた韓信によって無防備の国境を突破され、あっというまに斉の70余城を墜とされてしまった。斉王は怒り、酈生を烹殺烹殺したが、韓信が酈生を殺したともいえる。韓信は酈生の身を気づかって斉への武力進攻をためらったのだが、蒯生に説かれて決意し、結局は酈生を犠牲にした。
 ―酈生は、この世で私に好意的だった数少ない一人だったのだ。 と韓信はあとあとまで後悔したが、駒生は意に介せず、
 ―それが権変というものです。その代わり将軍は斉という巨大な国を得られた。
 何の不足があるか、と韓信の少年じみた感傷を嗤った。
 蒯生は韓信の異能に誰よりも驚いている。しかし一面、(書生にすぎないのではないか)
 そういう韓信の白っぽい皮膚を多欲と権変で鍛えないかぎり、かえって功の大きさのために自滅するのではないか、とおもった。蒯生が小蛾を韓信に仕えさせたのも、韓信に対する教育のつもりであったろう。 韓信は斉の旧都臨淄の王宮を総司令官としての宿所に使っている。
 「斉王広の栄華の跡でございます」と、かつての王の寝所に案内されたときも何の感動も持たず、「夜露を防げればいいのだ」といって重い長靴のまま絹の夜具の上にあがり、長剣を引き寄せて眠った。数日、夜も戎装を解かなかったのは、武骨を衒ってのことではなく、掃蕩戦に忙しかったのである。

 小蛾は、20人ばかりの少女を指揮していた。
 その服装は、小蛾も彼女の配下の少女たちも一様に白絹を用いた。白はこの当時忌まれる色ではなかったが、それにしても 女たちが白一色でいるというのは味気がない。
 ――韓信に無用の淫欲をおこさせないためだ。と、蒯生は小蛾に説明した。
 小蛾は、即公という斉の二流の豪族の末娘である。即公というのは潮生が斉に流浪していたころ厄介になった人物で、田氏一族が秦末の乱に乗じて斉を牛耳ったとき、その風雲に乗じ損ねた。というより田氏一族から白眼視されていたために野にあってごく地方的な勢力を保っていたに過ぎなかった。
 「お前は、たれだ」声のぬしへ見当をつけて言ったが、なにぶん部屋は薄暗く、まわりに白い群れが動いているだけで、何者が声を出しているのかよくわからない。
 「小蛾と申しまする。即公とよばれている者が父でございます」「わしは陛下ではない」
 さきに小蛾が陛下といったことをとがめたのである。
 「まあ」

 小蛾のほうが驚いた声をあげた。
 「王のことを陛下と称え奉るのが当然ではございませぬか」
 「わしは斉王ではない」「では、斉王はどなたでございます」
  (たれだろう)厳密にいえば、東方の高密城(山東省)まで逃げて行ったといわれるかつての斉王広こそそうであろうが、この乱世ではどの王も自立の要素が濃く、その資格は武力に拠っている。いったん軍隊を失った王はひとびとも王とは認めないのである。
 「ともかくもわしは王ではないのだ。わしにとって王は漢王あるのみだ」
 「しかしこの斉におきましては、ひとびとが将軍様を王とみなしてもよろしゅうございましょう」 「蒯生がそう言えといったのか」その程度のことは韓信にもあたりをつけることができる。
 「細工の多い男だ」韓信は蒯生を必要としているが、あの縦横家が、まるで泥人形でもつくるように別の韓信像をつくりあげようとしているのはどうにもわずらわしい。
 翌朝も韓信は戎装し、部隊を率いて城外へ出て行った。 かれは田氏一族が逃げ散ったあと、大きく掃蕩戦を展開している。韓信自身が身を動かしているのは前線視察のためであっ たが、毎日のように彼自身が手をくだす軽い戦闘もあった。
 「首都臨淄の繁華は旧のままだ」と、多くの斉人はよろこんでいた。韓信の作戦指導が巧妙なために、臨淄の人々は いつ支配者が変わったのか数日で忘れてしまうほどにその賑わいはおとろえていない。
 韓信はその配下の諸将をよく統御した。とくに劉邦の直命によってその傘下に入れられた曹参と灌嬰という二人の客将が、韓信に対していささかの苦情も持っていないことは驚くべき事象の一つといってよい。曹参は劉邦の旗揚げ以来の幕僚であり、灌嬰も韓信よりはるかに古参で、百戦を経た老練の将だが「すべて韓信の命令どおりにやっていれば間違いない」と信じきっているようであった。

 韓信軍は、いくつかの大枝を持っている。その一つの大枝の将である曹参は斉将の田既を膠東(山東省・平慶)に追いつめており、いま一つの大枝の将である灌嬰は、斉の相であった田光、斉将田吸、それに斉の事実上の主であった田横を追い詰めつつあった。
 斉王広が高密城に逃げこんでいる

 「その広は、おそらく楚に対して援軍をもとめるでしょう。楚の項羽はかならずこれに応じます」蒯生は、韓信にいった。
 (そうだろうか) 韓信にはわからない。 もともと斉の田氏一族は楚を好まず、些細な理由を立てて逆らってきた。かつて楚の総師だった項梁 (項羽の叔父)に斉は援兵を送らず、このため項梁が秦軍に囲まれ敗死したという事態があった。以来、項羽は斉を好まず、2年前の秋も彼は 大いに北征軍を興して斉軍を破ったこともある。要するに斉と楚ほど互いに背をそむけあっている関係もめずらしく、宿敵といってよかった。
 いま斉王広は鼠のように田舎の城に逃げこんでいるが、楚の項羽たるものがそういう敗残の斉王に援軍を送るだろうか。


                                ―次週へ続く―