自分が傀儡であることに目覚めた懐王だが宋義の存在こそ心強いものだった。 |  今中基のブログ

 項梁が定陶で戦死した段階にあっては、項羽も劉邦も、項梁の采配で動く方面軍の将に過ぎなかった。
 この時代、兵士というのは首領の肉体的武力を大いに信頼し、さらにいえばもし首領が殺されれば何百万という軍隊でもたちどころに四散する。このこともまた、この大陸において英雄が成立する条件であっただろうし、次いで言えば、その英雄たるものはたとえば項羽が184cmという躯体をもっていたように、肉体的に超人であることが条件とされた。
 むろん、首領というものは、敵を見れば猛然と突進するという、いわば暴虎のような気力を持つべきで、この点項羽の勇は人間ばなれしているといってよく、項羽ぎらいの宋義がのちに「猛如虎」と暗に項羽を諷したのは適評であったといえる。但しこの時代、この大陸にあって虎と評せられるのは、不徳と兇悍という意味が込められていてかならずしも当人にとって喜ばしい評ではなかったが、しかし、そういう種類の男に率いられる兵士たちにとって、これほど心強いことはなかった。

 項羽と劉邦の軍は、同一線上を相前後して進み、黄河流域の諸城を次々に屠ってついに中原におけるもっとも重要な都邑である陳留(河南省開封付近)を眼前に見るところまできたとき、総司令官の項梁の敗死を聞いた。
 「あってよいことか。」  「定陶では勝っていたはずではないか」
 と、項羽は、重い鞾子をはいた右足をあげ、地が割れるほどに踏みおろし、なおもその死を疑い、 使者を大喝した。
 なるほど項梁の主力軍は敵の秦軍の勢力圏の真っ只中に入りすぎた観はあったが、しかし常勝軍が突如大敗し、首領までが敗死するということが、常識として考えられることではない。
 急使は、状況を説明した。そのあと、項梁軍の敗残兵が次々に項羽軍を慕ってやってきたため、 項羽も事実として認めざるをえなかった。項羽は、少年の頃から父代わりの保護者であり、師でもあった、この叔父の死がよほど悲しかったらしく、ひと前で吠えるように哭いた。
かつ哭き、かつ叫んでは、この興奮のなかで復讐戦の発動を呼号したが、しかしまわりの部将たちの顔色は一様に冴えなかった。かれらは秦軍の怖ろしさをあらためて思い知らされ、いままでの勝利はたまたまの幸運だったのではないかと恐怖とともに思いおこした。
 劉邦の幕営にも、この悲報が入った。
 ---どういうわけだろう。
と、かれはつぶやいた。かれにとって項梁は、かれを項羽と同格の将軍として取り立ててくれた恩人ではあったが、むろん身内ではなく、さらには接触の期間がきわめて短かったために、悲しみというのは起こらない。背後を思わずふりかえりたくなるような恐怖心はあった。なんといっても味方の主力軍が潰滅し、前線のかれと項羽が孤立したのである。しかしそういう恐怖は別として、というよりも怯え以上に劉邦には事態が不思議であった。なぜ常勝の項梁が敗けたのか。

 劉邦という男は、こういう場合、自分の判断を口走らずにひたすらに子供のような表情で不思議がるところがあった。そういう劉邦のいわば平凡過ぎるところが、かえってかれのまわりに、項羽の陣営にはない一種弾みのある雰囲気をつくりだしていたといえる。幕僚や部将たちは、劉邦の無邪気 過ぎるほどの平凡さを見て、自分たちが労をおしむことなく、かつは智恵をふりしぼってでもこの頭目を補助しなければどうにもならないと思うようになっていた。事実、劉邦陣営はそういう気負い込みが充満していた。
 といって、劉邦という男は、いわゆる阿呆というにあたらない。どういう頭の仕組みになっているのか、つねに本質的なことが理解できた。
 むしろ本質的なこと以外はわからないとさえいえた。このたびの項梁の敗死についても、蕭何その他から説明をきき、「ああ、そうだったのか」と、心から彼らの説明に感心した。 劉邦が理解した問題の本質とは、要するに何でもない。秦が強いということである。正確に言えばなお強大であるというだけのことであった。次いでいえることは、秦の一大野戦軍を指揮している章邯という男が途方もない名将だということである。

 章邯は、限りある野戦軍を必ず分散させることなく、必要なときには大いに結集させ、全力をあげ て敵を破る。このため、戦場に疎密ができた。黄河流域の町々について章邯はそれを疎にして楚軍の蹂躙するにまかせ、項梁がいい気になって秦軍の濃密な地域に入り、深入りしたところを、章邯は大鉄槌をふりあげ、小石を砕くようにこれを砕いたのである。
 「なるほど、おれは黄河の流れに沿って西をめざしてきたが、勝ち進んでいると思い込んできた。これは章邯が勝たせてくれたのか」
 と、劉邦はまずそれに感心し、次いで項梁が章邯の壮大な罠にかかったという解説によって感心 してしまう。この感心の仕方に一種の愛嬌があり、愛嬌がそのまま人々に徳を感じさせる風を帯びていたために、劉邦が進むところ、智者や賢者が争ってかれの幕下に投じてくるという傾向があった。
 ただ劉邦軍が、士卒の士気の点において項羽軍に劣っていたのは、まず劉邦そのひとに白熱するような武勇が感じられないというところにあった。
 さらには、劉邦から軍政面を一任されている蕭何がきわめて厳格で、占領地で掠奪することを禁じていたからでもある。歴世、この大陸にあっては兵士と盗賊の区別がつかないほどで、戦って勝てば掠奪し、掠奪を期待することで士気も上がるという習性があったが、蕭何は極端にこれを嫌った。
 「秦は民に対し、餓虎のようなものであった。その秦を倒すのにわれわれが餓虎になっては、何のために起ちあがったのか、意義を失う」と、元来が民政家あがりのこの男はおそろしく真当なことを言っていたが、しかし全軍の兵糧調達を受け持つかれとしては、このことが兵站戦略にもなっていた。掠奪をしないとなればどの町も村も 劉邦軍に食糧供出の労をとってくれるが、そうでなければ食糧は地下に隠れてしまい、蕭何自身が 四苦八苦せざるをえない。
 むろん、劉邦軍の士卒といえども、掠奪はした。要するに、項羽軍にくらべ程度の差に過ぎなかったが、その差が県や郷への宣伝の効果として役立った。一面、士気という点では、この種の軍令はこの大陸の慣習に反するということで兵士の期待を著しく殺ぐこともあり、かならずしも昂揚に役立つということはなかった。
 ごく印象的に一言でいうと項羽軍は華やかであり、劉邦軍はどこか地味であったといえる。
 項羽は、既定方針どおり陳留城を攻めた。 このことは、いかにもこの男らしかった。項梁が死に、主力軍が潰いえても なお眼前の陳留城という 敵を見ればそれへ挑みかかるというのは、物事の計算を平然と越えることができる神経というべきであった。
 劉邦軍もつい項羽軍にひきずられて攻城に参加したが、項・劉いずれを問わず、楚軍全体に秦軍を怖れる気配がつよく、部将たちも城壁に近づくことをいやがり、それを強要すると夜陰ひそかに陣を払って郷国に帰ってしまう士卒群もあった。ある日、劉邦は前線を視察し、
 (これでは、とても勝てない)とおもった。場合によっては総崩れになる、ともおもった。
 挙兵以来、勝つよりも負けることに馴れてきたこの男は、一軍が臆している匂いを嗅ぐ点で、項羽よりも鋭敏なカンを持っていた。かれはそのまま幕僚を率いて項羽の本営に行き、床へあがると、主人に対するような慇懃さで拝礼した。劉邦はこのとき四十一歳であった。孫があっても不思議ではない年齢だったが、二十五歳の項羽に対し当初からそういう態度をとりつづけているのは、一つには蕭何の入れ智恵による。劉邦の行儀のわるさは相変わらずであったが、それを項羽や項一族の前でやると無用の反撥を買うということを、蕭何はつねに劉邦に教えていた。
 劉邦にとって煩瑣な儀礼上のやりとりがおわったあと、顔をわざと深刻にして提案をした。
 「退却しましょう」とは、言わなかった。
項 梁の死は全軍の悲しみである、さらには新都の肝胎におわす懐王の宸襟はいかばかりであろう、ここはひとまず兵をひき、新都に帰り、諸将を集めて善後策を講ずることが むしろ急務ではあるまいか、と説いた。

 このころ、項羽の側近に范増がいる。
 この老人はさきに項梁に接触してその軍師になったが、定陶の敗戦のとき農民に身をやつして秦軍の囲みを脱け、途中、数度秦兵に誰何された。しかし秦兵たちも、熊手で掻いたような日焼けじわのあるこの老人をみて、百姓以外の何者とも思わず、そのつど放した。范増は、方角については神秘的なほどの感覚を持っていた。たとえば若い頃からしばしば旅をしたが途を間違えるということは一度もなく、このときも、定陶から五日以上の日程を夜間歩き、一度も途をあやまることなく真直ぐに項羽の幕営を探りあてた。
 以後、当然のようにかたわらに侍している。帰着するとすぐ項羽に退却を献言した。
 ---いったんは、屈すべし。いま退却することは、つぎに勝ちを得ることです。
 この范増の言葉が下地にあったせいか、項羽は、あっけないほどの素直さで劉邦の提案をうけ容 た。もっともこの場合、かたわらにいた范増のほうが、内心、あきれる思いがした。
 (項羽とは、こういう男か)と、思った。
 じつのところ范増が退却を説いたとき項羽はかならずしも恰々とせず、むしろ復讐をとなえ、陳留城など踏みつぶしてしまおう、などと呟いたりしたのだが、劉邦の顔をみるといきなりその説に従ったというのは項羽の性格に欠陥があるのか、それとも相手の劉邦の人柄に得体の知れぬ何事かがあるのか、あるいは項羽は劉邦に魅かれるところがあるのか、いずれにせよ、 このことは黒い翳りのように、范増の脳裏で消えがたいものになった。
 もっとも、范増の底意地のわるい観察などは、項羽には無縁のことだった。
 項羽自身、項梁の死をきくと同時に、勝敗どころか戦場そのものを維持することすら不可能になっ た、と見て、ひそかに退却を決意していた。項羽は、范増が見るよりは遥かに優れた若者であった。
 かれはいまここで叔父の死を聞いてあたふたと退却しては、全軍の士卒の士気に拘わると思った。 さらには死んだ叔父の偉大さが残るのみで、あらたに死者の地位を継承せねばならぬ項羽自身の存在が軽くなってしまう。この配慮は、軍隊維持のために必要だった。ひとつ間違えば、項梁の敗死を聞いて全軍が風にさらされた灰のように散ってしまうかもしれないのである。
 項羽が范増に対し即答を避けたのはそのような理由もある。さらに項羽は顔にこそ出していない が、范増に対する多少の不満も、前の理由の中に混じっていた。項羽にすれば、この范増という気難しい老人は、軍師として叔父の傍にいながら、これを定陶で敗死させた。
 (なんというやつだ)と、項羽はひそかな腹立ちを范増にむけた。
 そのあと范増は古びた草履を他の草履に履き替えるように、いけしゃあしゃあと項羽のもとにやってきて、頼みもしないのにみずから軍師に任じ、さまざまのことを助言する。
  (なんという老人だろう)
 と思いつつも、項羽の胸の肉は厚くできているらしい。かれは、傲慢とも厚顔ともつかぬ范増という私心のない老人の存在に可笑しみを感じていたし、むろん可笑しみには好意も敬意も混っていた。
 このため定陶の一件を荒だてて責める気は毛頭なかったが、かといって叔父を敗死させたことに、 わざわざ労を謝するわけにもゆかず、要するにこの時期の項羽は范増に対し、挨拶にこまるといったふうの不透明な気分をもっていた。この項羽の態度の不透明さが、才智だけで物事をみる范増の目からみれば、
 (やはり、叔父より数等劣る人物だ)という感想になっているのであろう。
 ともかくも、この場の項羽は、劉邦に感謝した。
 項羽はしばしば秦軍に勝ち、そのことによってかれの存在が楚軍の士卒の間で輝かしいものになりつつある。そのかれの口から退却を言い出し難いという事情があったのに、劉邦からわざわざそれを言いにきてくれた。
 (面白いおやじさんだ)と、項羽は思わざるをえない。
 かれは劉邦という男が嫌いではなく、なにか、自分とはまったくちがう仕組みの男だと思っていた。劉邦はかれとちがい、しばしば秦軍に敗けているが、敗けるということによほど鈍感なのか、いくら敗けても、大きな片頬に小鳥の糞のような白い微笑をたえずくっつけて、顔色の変わることがなかった。ともかくもこの敗け馴れした男が、大きな膝を屈して、このたびは退却したい、といってくれたお陰で、項羽の自負心が傷つかず、さらには楚兵たちの項羽に対する失望を買うことからも免れた。
  (無能の相棒というものほど大事なものはない)
 という、道理の微妙さを項羽が感じたかどうか。爾来、友軍である劉邦軍の弱さのお陰で項羽軍の士卒たちはこれを嗤い、みずからを精強の軍と思い、ときに崩れそうになっても、一蹴して敵を破った。さらには、劉邦という、田舎の駐在所の巡査あがりの弱い大将が同僚にいればこそ項羽の武勇が際立って人々に印象された。劉邦とその軍は、項羽とその軍を引立て、励まし、強者にするために存在しているようなものであった。
 退却のときも、そうであった。
 弱い劉邦軍がまず東へ去り、項羽とその軍は困難な殿軍を買って出た。項羽は劉邦を安全な後方に逃がしたあと、敵と戦いつつ徐々にひきさがった。このおかげで、項羽は退却戦にも強いという評判が立った。
 かれらは、再起の根拠地としての彭城(いまの徐州)をめざした。
 彭城は、春秋戦国のころから栄えた地方都市で、劉邦の故郷とほぼ同一地帯にあり、おなじく泗水の低湿な農業地帯のなかにあって、水陸の交通の要衝をなしている。
 ついでながらこの町(徐州)にともなうのちの歴史にふれると、後日、項羽が自立したときにここに 都を置くことになる。項羽はこの町から四方に対し、「西楚の覇王」と称するにいたるのである。
 くだって唐代に至り、はじめて徐州と改称される。のちしばしば名称が変わった。さらにはたびたびこの町をめぐって大戦があったのは、ふしぎなほどであった。
 そのわけは、四方に道路が出ているために大軍の集散が容易で、会戦という現象が成立しやすく、兵法でいう番地をなしていたからであろう。余談だが日中戦争のときにも日中両軍の大会戦(1938年)が行われた。当時昭和13年(1938年)の日本軍歌に『徐州 徐州と人馬は進む 徐州 居よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りゃ お国訛りのおけさ節 ひげがほほえむ 麦畠』 題名“麦と兵隊”がある。
 その後、1948年11月、人民解放軍が国府軍とここで会戦し、十四個師団を全滅させて、内戦の勝利を確立している。
 彭城(徐州)の地は、項羽・劉邦のころから、そういう運命をもっていたらしい。
 「彭城に来られよ」
 という使いは、項羽のもとから、肝胎にいる懐王にまで発せられた。懐王は報に接し、すぐさま彭城に向かった。王が臣下からよばれて軽々しく動くというのは、故項梁によって擁立されたという弱味から出ているが、その項梁も死んだ。懐王はそろそろ自分がそういう傀儡であることにあきたりなく思うようになっていた。
 懐王の心強さは、旧楚の貴族の宋義が、影が形に寄りそうようにしてついていることであった。宋義は、すこし前に、野戦のなかにいた。幸い定陶の敗戦、項梁の敗死のとき、城外遠く離れた地点を、斉に向かって旅行中だったために敗死を免れ、たまたま出遭った「斉」の項梁への使者高陵君顕とともに奔って戦場を脱し、懐王のもとに逃げ戻っていたのだった。


 ―次週へ続く―