項羽の生涯でただ一度だけの権力闘争、宋義を討つ。 |  今中基のブログ


 彭城という町は商業でもっていた。このため大厦高楼というものがなく目ぼしい建物といえば、かっての県令の屋敷と庁舎があるだけで、百官が参内して王に拝謁すべき朝堂というものがない。  
 「朝堂がなければ、朝見ができない」
 と、宋義は彭城に入ると、ひとり喧しく言い、にわかに仮りの朝堂を建てようとまで言い出した。しかし項羽が怒って、「よせ」と大喝した。
 項羽の言葉は常に短く、ながながと理由が述べられないために誤解を招きがち
だが、この男の言うほうが正しかった。いまは戦時である。古来、親征する王はすべて戎服に身をかため、北狄が住むような幕営に起居し、軍議もその幕営で行う。朝臣が朝服を着て朝堂で朝謁を賜わるなどという時期ではない。宋義の魂胆は、項羽の目にも見えすいている。宋義はかならずしも繁文縟礼主義の徒ではない筈なのにことさらにそれを唱えているのは、王の尊厳をできるだけ手厚く装飾することによって流賊あがりの将軍どもを威圧し、ひいては王に侍立する自分の権威を高めたいというものであった。

 項羽は (おのれの魂胆など、見えすいているわい)と思ったが、口には出さず、
 「いま必要なのは朝見ではなく、軍議だ、すぐさま王の御前で軍議をしよう」 と、言った。
 軍議の会場として県の庁舎が選ばれた。後世のような土間と椅子といった装置はなく、大きな部屋ながら、床が高くあげられ、その床の上に薄べりのようなものが敷かれている。宋義は部屋を真っ二つに仕切り、その一つに懐王を座らせた。その傍に、自分だけが座った。他の半分の空間に、有力な諸将がぎっしりと座るのである。席次は、宋義が決めた。項羽の席は、さすがに最上席に用意されているが、宋義よりは高くない。次いで劉邦、さらには呂臣、黥布などというぐあいに居ならび、范増も項羽の推薦で一将の処遇をうけ、末席に座った。
 一同、着席した。やがて王と宋義が上の間に現れたとき、宋義の子分の者が一同の座を廻ってはいちいち拝礼の仕方を教え、作法を間違える者に対しては声を荒げて叱った。みな手足が硬直するような気分になり、叱られた者などは顔を赤くして懼れた。意外なことに、諸将のなかで項羽だけが、身動きのすべてが礼にかなっていた。死んだ項梁が、項羽の少年の頃からこの種の作法をすべて教え込んでいたためである。劉邦の所作が、最もよくなかった。元来、礼の嫌いなこの男は大きな体をどう屈伸させていいかわからず、そのうちに時間が経った。
 会議がはじまると、面倒な作法によって諸将の気分が硬くなり、ゆったりと口を開いて喋っている者は宋義だけという具合になった。
 「項梁将軍の楚軍は、定陶で潰えた」 と、宋義が一喝するようにまず言ったため、諸将はいよいよ身を小さくした。項羽が、「ばかな」と言おうとしたとき、宋義はすかさず、「すくなくとも章邯はそう思っている」
と言った。宋義の見るところは、正確と言っていい。確かに秦の章邯将軍は、定陶の戦いの結果、項梁を殺すほどの打撃を楚にあたえた上、項羽、劉邦、呂臣の軍が一斉に退却したことを見て、楚軍の再起は当分不可能と判断した。この時期、章邯ほど多忙な男はなかった。かれはこの勝利にあぐらをかく余裕もなく、陛下の機動軍を率いて定陶を去った。かれは走るようにして北上した。済水を北へ渉り、さらに黄河を北にわたって、距鹿(河北省邢台の西南)を包囲した。
 鉅鹿は、趙にある。この大乱で、かつての王国である趙も、張耳・陳余などといった戦国生き残りの策謀家が亡趙の王孫を探し出してきて趙王とし、独立国家であることを呼号した。が、兵すくなく、当初、信都(鉅鹿の付近)に都したが、たちまち秦軍に攻められて都を捨て、宰相の張耳が趙王をかついで鉅鹿城に逃げこみ、城門を閉じた。秦の章邯はこの機に趙の息の根を止めるべく三十余万の機動軍を率いてこれを重厚に包囲し、城内が餓えるのを待った。
 趙は、悲鳴をあげ続けた。張耳たちは四方に救援の使者を走らせた。燕も自立しており、斉、さらには楚というふうにそれぞれ使者が駆けこんだ。その使者が来たのは、懐王と宋義が彭城に入城する直前で、宋義が会った。
 諸将は、気付かなかった。宋義が、この新情勢についての最初の情報を握ったということは、軍議 をかれが主導する上で、大きな力になった。
 項羽もそれを知らず、楚軍の再建をどうすべきか。 という提案をしようとし、最初に発言したが、宋義によってさえぎられた。
 「趙の鉅鹿城が秦軍に囲まれている。秦の大将は、章邯である」
 といったために、一挙に軍議は宋義が中心になった。
 「章邯がいつ鉅鹿へ出てきた」と、項羽でさえうろたえてしまった。他の諸将も大いにざわめいた。一面、安堵もあった。定陶で項梁軍を潰した章邯の機動軍が、もし北方の趙の鉅鹿へ行かずにこの彭城を攻めていたならば、この席にいる項羽・劉邦以下の諸将の命など、いまどうなっているのか、知れたものではない。危うく助かったという思いと、一方、趙の鉅鹿城が陥ちれば章邯の機動軍は必ずこの彭城に来るという危機感とが、一座の気分をひどく落ちつかぬものにした。

 軍議は長びいた。しばしば休憩があった。 諸将は休憩のつど湯を飲んだり、庭に出たりした。庭には木陰ごとに諸将の幕僚が屯しており、 どの将軍もそういう連中に議事の内容を説明し、どうすればよいか、などと意見を聞いてまわるなどした。
 このため軍議は何度もぶつ切れになった。その間、懐王の重大発言があった。
 「関中をくつがえすのが、最終の目的である」
 と、懐王のことばは、そういう内容からはじまる。もっとも過ぎるほどのことであった。 関中という地理上の言葉は、歴史、政治、あるいは文化上の華やぎとともに、この大陸にあっては特別の響きをもつものであった。
 懐王がいうとおり、秦都咸陽のある関中を覆すことこそ、抗案に起ちあがった反乱軍として は最終の目的であろう。関中さえ覆せば懐王は秦のあとを受けて帝国を形成し、皇帝たりうるのだが、しかし、ここでかれは不思議な発言をした。「諸将は大いに競進して秦と戦え。最初に関中に入った者を関中王とするであろう」 と、約束した。関中がもつ政治・経済上の価値からみて、その競進の勝利者である「関中王」こそやがてはこの大陸の主人たりうるための最短距離に位置すると云えるかもしれない。
 少なくともそういう想像が、どの野望家の脳裏にもうかんだ。懐王だけがそれを思わずに右のことをいった。懐王にすれば前面の秦の軍事力があまりにも大きく強く、諸将に死力をつくさせてこの猛炎を掻いくぐらせるには、とほうもない褒賞を設定したほうがいいだろうと思ったからであろう。懐王は利口なようで、多分に子供のようなところがあった。
 最後の休憩のとき、懐王と宋義はいったん奥にひっこみ、命令案を作った。十分に衆議をつくさせ、 諸将がくたびれたあと、衆議とは離れていきなり命令を下すのである。でなければ、王の権力と尊厳の確立は期しがたい。
 命令の主要部分は、楚軍の主力をもって北方の趙の鉅鹿へ進み、各国の援軍と協力しつつ章邯の主力軍を撃つというものであった。章の主力軍を鉅鹿の野で撃滅しなければ、逆に楚は章邯に滅ぼされるに違いなく、この意味で鉅鹿の戦いは楚の存亡を決するものになる。
 宋義は懐王に対し、みずから上将軍になることを希望し、容れられた。宋義は歴軍の主力を握る ことによって、斉などに対する楚の外交権をもあわせ獲るという計算をした。この小さな計算以外は、 宋義の戦略は妥当なものといえた。問題は、項羽の処遇であった。かれを次将軍とした。
 「しかし、羽(項羽)は、承知するか」懐王は、不安がった。
 何といっても楚軍はもともと項梁のものであり、その相続者の項羽が、他からきた宋義の指揮に甘んずるなどは、考えられない。

 「項羽に、魯公という称号をあたえましょう」
 と、宋義は言い、懐王の不安を消した。いやな男を位打ちにするというのは、貴族の常套手段であった。
 この命令が、宋義の口から発せられたとき、項羽は激怒した。 「次将軍というのが、気に入らないのか」と、懐王があわてて言ったが、項羽は懐王のほうには目もくれず、宋義の目を見すえつづけた。項羽の燃えるような視線が、宋義の顔から頭筋に移った。宋義の頭は栗を思わせる。なみよりも小ぶりであったが、そのわりに頭がふとんを巻きつけたように太く、気味わるいほどにやわらかそうであった。宋義はおもわず、頸につるぎの冷たさを感じた。
 「御前である」 宋義は、項羽をたしなめた。
 項羽はしばらくだまったが、やがてこぶしをあげ、

 「なぜ、わしを関中に進ませぬ」と、いった。
 一座の者たちは、それが項羽の怒りの理由だと知ったとき、意外な思いがした。常識としては鉅鹿へゆく主力軍に属するほうが軍功が大きく、別働軍は好ましくない。
 関中へ直進するといっても、それは敵の章邯をくらますための呼号であり、内実は囮部隊というべきで、その程度の実力と役目しか持っていない。関中へ真っ先に入るという志望を項羽が持っていたとしても、主力軍に属しているほうが、その可能性が大きいのである。項羽にはそこがわからなかった。
 懐王は、王の権威にかけて、項羽のこの不服を聴かなかった。さらには項羽には、襄城で住民までを大虐殺した前歴があり、この場の諸将は、項羽が別働軍を率いる場合、それを再演するかもしれぬことを怖れた。もう一度あれをやられては、楚軍が民心を失い、自滅せざるをえない。諸将おのおの立ちあがって、項羽をなだめた。
 宋義は項羽を無視し、さらに勅命を読んだ。劉邦をして別働軍の将たらしめる、というのである。
 このとき、劉邦は劉邦で、 (軽く見られたものだ)と、思った。他の諸将も、その程度にしか、別働隊の部署についての感想を持たなかった。ともかくも諸将たちは項羽をなだめ、ついに范増が項羽のそばに寄って、
 「むしろ幸いとすべきです」 と、ささやいたために、項羽もいったんは怒りを鎮め、服することにした。

 楚軍が、彭城の地を発したのは、九月の初旬であった。先鋒が動き始めたときは未明で、数万の炬火が星の数と競いあった。
劉邦が率いる別働軍は彭城の西の碭を、いわばひっそりと発したために、多くの人々はその出陣の景観を見ていない。
 一方、「卿子冠軍」
 と名づけられた宋義・項羽の軍容はこの日、泗水平野を染めた朝焼けを圧倒するほどに盛んであった。卿子冠とは楚語である。公達---貴族の子弟---のことをいう。かつて楚の令尹の家に生まれ た宋義がこれを率いるために、懐王がわざわざそのように呼称させた。沿道、密偵によって大いに その名称と軍容が、遠い鉅鹿の敵味方に聞こえるように流布された。
 この朝、露が繁く、車は車輪に露をはねながら行き、従う騎兵も歩兵も皆水をくぐったように濡れた。
 宋義の車は中軍を進みその周りは旗を翻した騎兵が囲み遠く望めば紅霞がたなびくようであった。

 宋義が座乗する車は、水色の帳がおろされている。この男は独りを慎めないところがあり、帳の中 では戎服などはぬぎ、冠もつけずに庶人同然のなりでいた。気の毒なほどに多食でもあった。ひざの 上に塩づけの肉やほし肉などを置き、所かまわずに食い散らし、口辺に蠅が寄っても払おうともしなかった。
 「卿子冠さまのお車は、蠅だらけでございます」と、范増の密偵が、かれに伝えた。
 范増は最後尾の部隊を率いている。このたびの卿子冠軍の編成にあたって、将が不足していたために、本来項羽の傍にあって謀臣を務めるべきこの男が、懐王から乞われてというよりも宋義が范増を項羽から切り離すために末将として一軍を率いることになった。
 しかし、范増は項羽の謀臣である仕事をやめたわけではなく、自分の部隊を指揮しつつも、項羽 のために策を講ずべく諸方に密偵を放って情報を集めていた。ついでに味方の諸将のまわりにも密偵を置き、とくに宋義の動静を知ろうとしていた。
 「蠅か」范増は不思議がった。九月といえば沿道の民家では冬支度を始める頃で蠅も少なくなっている。その少ない蠅が、宋義の車に群がっているというのは、尋常なことではない。
 「どういうわけだ」と、密偵に聞いたときに、宋義の食い意地の汚さを知った。
「それが、卿子冠さまの正体というものだ」 と、范増は、歯のない口を大きくあけて笑った。
 宋義の本軍が、安陽という町についた。
 同名の町は他にもあるが、ここはのちの地名でいえば山東省曹県に近く、その東にある。彭城を基点とすればその東北、旅程にしてわずか五日ほどしか離れていない。町の規模は小さく、むろん県城ではない。宋義はこの小さな町に着くと、その陛下の大軍を宿営させ、どういうわけか、動かなくなってしまった。
 「鉅鹿までは遥かに遠い。彭城を去ること数日で軍旅を駐めてしまったのはどういうわけであるか」
と、後続する項羽が使者を送ってその理由を聞いたが、宋義はそのつど寛闊に笑い、方策はある、 しかしわが胸にある、まかされよ、というのみだった。十日を経た。さらに日が過ぎてゆく。
 范増は、宋義のまわりの諜者を増やした。敵に対するよりも味方についての諜報を得なければなら ぬことをこの謀将は悲しんだ。宋義は商人が自分の貨をたたえるように口をひらけば楚への愛をとな え、懐王への忠誠を熱情的に語るが、どうやら私心をくらますためのものであるらしい。かれは息子の宋襄の就職のために斉へしきりに使者を送っているようであり、斉からも使者がしばしばきている。 安陽は斉へは距離的にもっとも近いのである。
(これは大変な食わせ者だ)范増は思うようになったが、項羽に事実をもって告げるわけにゆかない。項羽は関中の征覇のみを思い、心をいらだたせている。告げれば、宋義に対し何を仕出かすかわからず、場合によっては楚軍の崩壊につながるかもしれない。
 兵士が、餓えはじめた。
 安陽などといった小さな町では秦の食糧庫もなく、近辺には農村も少なく、兵士たちはあらゆる村に集っては食糧をあさった。しかし、やがてそれも尽き、民がまず餓え、兵も食を得ることに苦しみ、そのうえ気候は日ごとに寒くなっている。
 兵たちは、暖をとることに難渋しはじめた。安陽のあたりは広漠とした低湿地でろくに樹木もなく、 兵たちは僅かな木を伐ってはそれを火にした。やがて乏しい木も尽きた。項羽は自軍の士卒を偏愛するところがあり、飢寒に苦しむかれらをみて、宋義への感情が日ごとにそぎ立ってきた。
 滞陣が、46日目になった。項羽はたまりかね、宋義の本営へゆき、扉を邸蹴るようにしてなかに入り、宋義をその家来たちの前で詰った。
 「こんな安陽で、冬をすごす気か」
項羽はどなり、「なぜ、鉅鹿の戦場へ行こうとせぬ」
といったが、宋義は黄色い顔に微笑を大きくひろげて、「魯公よ」と、項羽を尊称でよんだ。
 「牛の蛇をご存じか」と、いう。
 貴公は早く鉅鹿へ行って章邯の大軍を攻め潰せ、と仰せあるが、しかし章邯は蛇である、これを手でもって叩くだけでは、牛の毛の根に入っているダニや虱まで退治ることはできない、いま章邯は趙の鉅鹿城を攻めているが、たとえ勝ったところで秦兵は疲れているであろう、われらは秦兵の疲れを待って攻撃すべきで、いまは逸るべきでない、私は甲冑をつけて戦うことにかけては、貴公より劣る、しかしこのように本営の中で謀ごとをめぐらすことにおいては、貴公より上である、といった。
 項羽は、理に窮した。それだけに、感情のほうが噴出し「兵は餓えている」 と、吠えた。「にもかかわらず卿子冠どのは斉からの使者を歓待して日夜酒宴を張っておられる、兵の苦しみを何と思っておられるのか」、ともいった。
 「魯公よ」 宋義は微笑のまま言った。
 「王から外交を任されているのは私であって、魯公ではあるまい。斉の使者を接待することは楚国のためである。なるほど兵士の一部は飢寒のために不平を抱いているかもしれない。不平は、楚国への愛情が足りないところから起こる。魯公はよろしく兵を戒められよ」
 と言い、項羽をつき放した。
 その翌日、宋義は盛大な行列をつくって、城外へ出てしまった。そのことが、城外の各地で宿営している諸将の耳に入った。
 范増が驚き、 (何事がはじまったのか)と、様子を探らせると、息子の宋襄を斉の宰相にするという宋義の交渉が成功したらしく、斉の使者と宋襄を送るために無塩まで出かけて行ったという。さらには次の謀者が戻ってきて、宋義は無塩で盛大な送別の宴を張ったという。
 (何という奴だ)と范増はおもった。
 ときに、長雨が降っている。この日、大雨になった。寒気が甚だしく、楚軍の士気は沈滞し、 この滞陣のまま雨に溶けて土のように崩れてしまいそうであった。范増はついに決意し、項羽のもとにゆき、ありのままを告げた。
 「宋義は、私的に斉と外交をしています。滞軍は、そのためです」
項羽は、しばらくぼう然としていた。項羽もまた宋義の口から出るさまざまな忠誠と愛国の言葉に惑わされ、宋義への不満を公然と表すことを憚ってきたので ある。
 「すべては、私事か」項羽は、激情を抑えるために大息を吸い、吐きながら『宋義は私欲を企む』『ただそれのみ、いままでの宋義の言動はことごとく私欲のためであったか』と呟いた。
 宋義は、前夜に安陽に還っていた。項羽の行動は、短剣のように直截であった。
 項羽は宋義が帰陣したということを確かめた夜、単騎、自陣を飛び出した。未明に城門に至り、 門番に怒号して開けさせ、町を駆けて宋義の宿舎に至った。
 「急変である、上将軍に謁を賜わらねばならぬ」と言って衛士を押しのけ、寝所に押し入って、帳をかなぐりあけた。寝床のなかで宋義の木臼のような頭が動き、次いで肥った上体が持ちあがって、茫然と項羽を見た。
 「なんだ、魯公か」と宋義がいったとき、その頭上に、項羽の重い刀が降り落ちた。臼のような頭が割れ、あたりが赤く染まった。
そのあと、項羽の兵や、范増の兵が駆けつけてきて安陽の本軍を鎮静させた。  

 項羽は、全軍の諸将を宋義の宿舎に集め、
 「宋義は斉に通じて楚を私した。王はそれを知り、密勅をこの羽にくだした。よってこのように誅した。」と背後の死体をあごでしゃくり、「異存はあるか」と、いった。
 諸将はみな怯えて拝跪し、そのうちの一人が声をふるわせ『はじめ楚王を立てたのは項将軍の御家でございました。いま謀叛があり、かように誅されました。将軍の正しさを誰も疑う者はございませぬ』 といった。

 「そのとおりだ」 項羽はうなずき、
 「むかし江南の呉中で兵を挙げ長江を渡り、淮水を渡ったときは、宋義のようなまやかし者は おらなんだ。みな楚を興すべく結集した死士ばかりであった」というと、両眼から噴くように涙をこぼした。
 一同、項羽の涙をみて感激し、いっせいに項羽に対して誓うべく右肩をぬぎ「大楚!」と、叫んだ。
 項羽は時をうつさず騎兵団を斉に向かって走らせた。 宋義の息子の宋襄を殺しておかねば、宋襄は斉を動かして楚を討つかもしれない。宋襄が斉の国境に達したあたりで騎兵団はこれに追いつき、宋嚢以下、その一族を皆殺しにした。さらに一方、項羽は懐王にも使いを出した。報に接し、懐王はのけぞるほどに驚き、かつ怖れた。恐怖のあまり、使者が要請するよりも早く、項羽の名をうやうやしくとなえ、これを上将軍に任ずる旨、勅した。
 項羽は、かれが本来握るべき楚の全軍を、ここであらためて掌握した。かれの生涯でただ一度の権力闘争であったといっていい。掌握するとただちに全軍に進発を命じた。北方の鉅鹿において秦の章邯三十余万の兵と決戦するためであった。項羽の兵は、七万ほどでしかない。       
 
 ―次週へ続く―