項梁は結果的に見れば 項羽軍と劉邦軍の産みの親とも言える。 |  今中基のブログ

 「武信君」 項梁は范増の案に満足した。名称については自分で選び名乗った。ただ、野戦軍を支配している項梁として実務上困るのは、この薛の町に王が居て朝廷があるということだった。 体よく遠ざけるために、都を肝胎(安徽省)に置くことにした。
 それから数カ月経った。
 項梁は一種の慎重家だけに準備に長い時間をかけたが、それだけに十分の支度ができ、やがて一軍、二軍、三軍と薛を出発して懸案の西進を開始した。はるか西方に秦の根拠地の咸陽があり、最終の目的はその咸陽を覆すことであったが、いったんは北進しなければならない。
 北方に、黄河が東流している。
 黄河こそ、その上流(潼関からは支流)の秦都咸陽にいたる道であった。さらにいえば、秦都咸陽を養っている食糧の補給路でもある。このため黄河流域の都市はそれぞれが食糧庫のようなものであり、 それらを制してはじめて咸陽を衝くことができる。
 項梁は北進し、全軍あげて亢父(山東省・いまの済寧)を攻め、劉邦がかつてあれだけ苦心して攻めて陥ちなかったこの町を簡単に落としてしまった。この攻城隊長のひとりに、劉邦がいた。劉邦は項梁に属してからはじめての戦いだけに、配下の諸将を督励して懸命に戦わせた。協同部隊に、項羽の軍がいた。項羽は劉邦と違い、つねに陣頭に立ち、みずから矢を射、鉾をふるい、部下をして火を噴くように城壁へ挑ませた。劉邦部隊はそれほどに苛烈ではなかったが、諸将がよく各隊を掌握し、じつにみごとに進退した。
 (なんと、劉邦の軍のみごとさよ)
 項梁も認識をあらため、一作戦ごとに兵力を増やしてやった。劉邦は、多々ますます弁じた。
 (劉邦は、部隊が大きくなればなるほどよくやるかもしれない)
 と項梁はおもい、さらに北進して東阿(山東省・いまの東阿)を攻めたとき、これに大兵をあたえ、思いきって項羽とともに左右翼を構成させる同格の将とした。

 項羽と劉邦は併進してついに黄河の支流済水を渉り、その北岸の東阿をかこみ、これを陥とした。
 東阿の城市を占拠すればすでに黄河の下流は抑えたといってよく、さらにいえば秦都咸陽までは遠いとはいえ、それへ至る主要道路に出たといっていい。
 (やっと東阿に出たわ)
と思ったとき、項梁は慎重家としての硬質な部分を半ばゆるめた。かれの持ち前の呑気さの方が顔を出し、秦はこの程度のものだという多寡をくくった気持になった。
 かれは、自分の兵威を懐王に見せたくなった。しかし懐王を呼ぶわけにゆかないために令尹の宋義を勅使として呼ぶことにし、
 ---河の流れをご覧にならないか。という急便を出した。
 宋義がきた。
 (項梁ともあろう者が、増長したか。あぶない戦をすることよ) と、宋義は思った。項梁はすでに軍を真っ二つに割っていた。そのうちの一つを自分が持ち、独立軍とし、済水から南へ離れた定陶を攻めるべく準備していた。
 他の一つは項羽・劉邦にあたえ、済水沿いの城陽(山東省濮県付近)を攻撃させるべくすでに出発させる。
 両面作戦であった。
 (兵の要諦は分散を避け集中を心掛けるにある。項梁は多くもない兵力をなぜ二つに分けるのか)
 宋義は、項梁の気は確かかとさえ思った。項梁は宋義を役立たずの貴族くずれとして見くびって いる。しかし宋義は軍隊指揮の経験こそないが机上の兵理論にかけてはひけをとらぬ男だった。
 項梁は危ない、と宋義は思った。なるほど項梁は地を抱くような勢いで亢父から東阿を陥とし、 黄河の支流の畔へ出たが、そのあたりでは秦軍はもともと稀薄であった。
 (秦の章邯をあまく見ると、ひどい目にあうぞ)
 宋義は、秦の章邯将軍のいままでの戦いの仕方を見ていて、一つの法則があるということに気づいていた。大兵力を結集させて敵の小を撃つというやり方で、このためには兵力の分散を極力避けていた。章邯は、いまのところ西方にいる。
 章邯にすれば、遠い東方の父や東阿にまで相当の兵力をさいて散在させると、かれの得意の「結 集して強打」という作戦が成立しなくなるために、強いて東方を秦の地方軍にまかせて捨てていたと見ていい。そういう地域で項梁が連戦連勝してしかも秦軍そのものを見くびるというのは、宋義の見 るところ、(項梁は存外、兵に暗いのではないか)と思えた。しかも、このたび両面作戦をやるという。各個に撃破されるだけではないか。
 「宋義どの」
 項梁は、この亡楚の公卿の出の男を、済水のほとりまで案内し、あれこれと説明した。

 「私はいまから一軍を率いて遠く定陶を衝き、これを覆す。ぜひ従軍されよ」 と、項梁はいった。定陶という地名を聞き、宋義はあきれた。
項羽・劉邦が攻撃する城陽とは距離がありすぎる。両方面軍はたがいに孤軍であった。
 「なぜ定陶をめざされますか」
 宋義は、念のためにきいてみた。ところがそれまで多弁に自分の作戦を説明していた項梁が、急に声を小さくし、あの町は私が、といった。むかし住んだことがある、地理や人情にくわしいからね、 とのみ言っただけで、他に話を外らした。
 (定陶に女がいるのではないか)
 と、宋義は、項梁の説明不足の部分を想像でうずめざるをえなかった。宋義は、項梁が放浪時代、各地に女を住まわせてどの女も項梁を慕っていたという噂を聞き知っていた。
 この宋義の想像は、重要な部分は外れていない。項梁が定陶に自分の方面軍の作戦を指向したのは、そこが秦の章邯将軍の本拠に、城陽より一層近いからであり、いずれ章邯と決戦する場合、項羽や劉邦に先鋒をつとめさせるよりも自分が前面に出、手を砕いて戦ってみようと思ったからであった。しかしそれならば必ずしも定陶である必要がない。定陶には、宋義の想像どおり項梁の放浪時代の初期の女がいる。それだけでなく、いま貧窮しているという噂を会稽にいるころに耳にしたことがあったのである。
 項羽・劉邦が、城陽を攻め潰した。
 一方、項梁は東阿から道を南西にとり、行軍と小戦闘をかさねて定陶に至り、わずか数日の攻城でこれを陥落させた。意外な容易さだった。
 宋義はこの陥落の容易さにかえって怖れた。定陶は秦の章邯軍の行動可能の範囲内にある。項梁軍には後援部隊がなく、いわば敵の海の中でみずから孤軍になっているにひとしい。宋義はそれは項梁の慢心のせいだと思い、それとなく諫めてみたが、項梁は聞かなかった。

 数日後に、宋義の予感が的中した。野の彼方から秦の兵が現れ、やがて野を覆うような大軍になり、定陶を攻囲した。事態は逆転した。秦の攻囲軍は日に日に増強された。秦兵を捕らえて調べてみると、章邯将軍の正規軍であることがわかった。
 「なんの、章邯ごときが」
 項梁は勝ち戦の気分に憑っているだけに、さほどは驚かなかった。ただ後詰を用意しておかなかったことだけを悔いた。宋義は項梁の後悔を見てとって、
 「斉に使いして援軍を乞いましょうか」
 と、説いた。斉も、自立している。かつての亡斉の王族の田氏が、陳勝の蜂起とともに亡斉の地で立ち上がったのだが、しかし複雑な内部事情があり、項梁の歴軍とときに連繋したこともあったものの、十分な共同戦線が成立していない。 が、いまとなっては斉に頼むしかなく、項梁も消極的ながらこれに賛成した。宋義は内心、舌を出す思いだった。いまさら斉に使いしても、宋義の見るところ往復に多くの日数がかかる。そのうちこの定陶は陥落する。宋義は使いという名目で、それ以前に脱出することができるのである。
 余談だが、宋義は定陶城を脱けて斉にむかった。途中、斉からも、定陶の項梁に会うべく使者が近づいていて、双方、途に出遭った。使者は宋義の旧知で、斉の高陵君顕という人物であった。
 宋義は、この旧友に、「定陶にゆくなら、道を急がれるな」と、注意した。
 多少は状況の説明もし、要するに急いで行けば落城に巻き込まれて命を失うだろう、という意味のことをほのめかした。
 項梁は、籠城しつづけた。かれの奇妙な癖は、この場になっても、なおらなかった。むろん毎夜ではないが、夜、微服して町をひとり歩きするのである。おそらく項梁は路上で老人をつかまえては、昔、この一廓にこういう女が居たが憶えているか、憶えているならどこへ行ったか、といったようなことを聞いていたのであろう。詳しいことは、項梁がほどなく死者になるためにわからない。
 章邯の能力は将軍として項梁をはるかに越えていた。かれは定陶攻囲の直接の指揮をとっていた。かれは、よりぬきの部隊に夜襲の訓練を施していた。ある夜、その部隊を隠密裡に城壁に登らせることに成功した。
 あとは容易だった。乱戦のうちにその部隊によって城門が内側から開かれ、門外に待ち構えた秦の大軍が突入した。このとき項梁は農民の服装をしたまま本営へ帰ろうとしていた。事態に気付いて、急ぎ指揮をとるべく走った。しかし、秦兵の大群の中で、いつのまにか押し潰されるよう にして死骸になってしまった。一軍の総帥でありながら、誰に討たれたかということさえわからなかった。
 項梁の意志とは関りのないことだが、項羽と劉邦の側からみればかれはこの両人を前面に押し出すために懸命に生き、あるいは死んだともいえるかもしれない。
 一方、項羽と劉邦の軍は城陽を陥落させた。章邯将軍の主力軍が定陶に指向していたために、北方の城陽は一種真空の状態にあり、さらにそれにつらなる濮陽の町も雝丘の町も空っぽ同然で、かれら は勢いに乗じてこれら黄河流域の諸城を攻略し、陥落させた。


 項梁が定陶で戦死した段階にあっては、項羽も劉邦も、項梁の采配で動く方面軍の将に過ぎなかった。
 両人は互いに僚将として連繋しあい、黄河流域に沿い、西に向かって進撃していた。 兵力の点で項羽軍が圧倒的に大きかった。士気においても劉邦軍よりはるかに勝っていたのは、一つには兵士に楚人が多かったせいでもあろう。楚人は北人(狭義の漢民族)にくらべ、体が小さく、平均して腕力も弱かったが、燃えやすい油のように感激性が強く、さらには隊伍を組むとき、気を揃えて進退するという点で優れていた。
 「大楚!」と、一斉に唱和する団結力は、黄河流域人からみれば、むしろ気味が悪いほどだったかもしれない。楚人の母国愛もまた群を抜いて、強く激しいものがあった。
  

  ―懐王・宗義VS項羽―  次週へ