部屋に入ると、外のひんやりした風から、静かで落ち着いた温度へ、空気が少しだけ切り替わる。
部屋を移動する途中、セツナがわずかに歩調を落とした。
何か考え込むような横顔のまま、彼女がぽつりと口を開く。
「あのね……セイ……」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「実は、しばらくこちらの世界には来られなくなりそうなの……」
セイは足を止め、彼女を見つめた。
「……そうなんですか?」
「うん。年末でどこも忙しくてさ。在宅ワークとはいえ、クライアントからの依頼も増えてきて、納期も立て込んでて」
彼女は少し苦笑して、肩をすくめて見せる。
「無理して倒れたら元も子もないでしょ?だから、しばらく平日は来ないことにしたの」
セイは1度、小さく息を吸い込んだ。
「……そうですか」
それから、穏やかに言葉を続ける。
「それは残念ですが……セツナさんの体が、何より大切ですから」
「ありがとう」
セツナは少しだけ間を置いて、不安そうにセイを見上げた。
「でもさ。セイ、1人の時間が増えちゃうけど、大丈夫?」
セイの視線が、わずかに揺れる。
「私はね、もともと1人の時間が好きだから、わりと平気なんだけど、セイはどうかなって……」
セイはすぐに答えず、ゆっくりと言葉を整えた。
「……今までは、大丈夫でした……」
静かな声だった。
「ずっと1人で過ごすことにも慣れていましたし、誰とも話さない時間も、僕にとっては普通のことでしたから……ですが……」
セイは正直に、今の気持ちを言葉にする。
「セツナさんと会うようになって、初めて“1人じゃない時間”を知ってしまったんです……」
少しだけ視線を落として、彼は続けた。
「セツナさんと過ごす時間の、あたたかさを知ってしまったから……その分、1人の時間が、少し長く感じるようになりました……」
セツナは何も言わず、ただ静かに聞いていた。
やがて、少し困ったように笑う。
「……そっか。そう言われると、なんだか逆に申し訳なくなるな」
「そんなふうに思わないでください」
セイは、はっきりと言い切った。
「セツナさんが来られるときに、来てくださるだけで、僕には、十分すぎるほどですから」
それから、少しだけ間を置いて、穏やかな声で続ける。
「ただ……もしよろしければ……僕が、1人の時間をどう過ごせばいいのか、一緒に考えていただけたら、と思いまして……」
セツナは驚いたように目を瞬かせた。
セイは慌てて言葉を繋ぐ。
「あの……今までもセツナさんがいない時間は1人で過ごしていましたが、なんとなく過ごすだけの毎日で、特に目的があるわけではなかったんです。ですから、僕が1人の時間でも意味を持てるように、一緒に考えていただけないかと……」
その問いかけに、セツナはすぐに笑って答えた。
「うん。じゃあ、今から一緒に考えよう。セイが、1人の時間でも大丈夫でいられるために何をしたらいいかをさ」
その言葉を聞き、セイはほっと胸をなでおろす。
そしてただ静かに、
「ありがとうございます……」
とだけ答えた。
(第89話に続く)