朝は、昨日とほとんど同じ時間に目が覚めた。
目覚ましが鳴ったわけでもない。
ただ、身体がその時間を覚えていた。
(……起きられたな)
それだけで、少し安堵する。
特別な意味はない。
けれど、「今日も大丈夫だ」と思える程度の感覚はあった。
ベッドを出て、顔を洗う。
キッチンに立ち、昨日買ってきた食材を確認する。
(今日は……これでいいか)
迷うほどの選択肢はない。
だからこそ、決断も早い。
食事を用意して、食べる。
味を確かめるように、ゆっくり噛む。
(……悪くない)
それだけで十分だった。
食べ終えて、カップを洗う。
動作は自然で、考え事は挟まらない。
(この後……いつもなら、何をしていただろう)
ふと、そんなことを思った。
会社に行って、与えられた仕事をこなして、必要な会話だけをして、1日を終わらせる。
それが「いつも」だった。
(……じゃあ)
今の僕は、どうだろう。
仕事はない。
行かなければならない場所もない。
時間だけは、確かにある。
でも……何か、したいことはあるか、と自分に問いかけてみても、すぐには答えは出なかった。
やりたいこと。
楽しいこと。
時間を忘れて没頭できるもの。
(……思いつかないな)
そう考えたところで、少し、苦笑する。
考えてみれば、「やりたいことがあるからこの世界に来た」わけではなかった。
仮想空間という存在を知って、興味を持った。
父の会社が関わっていたという理由もある。
けれど、それだけではない。
(……違う)
もっと、別の理由だった気がする。
現実では、僕はいつも何かの「枠」で見られていた。
誰かの息子で、何かの肩書きがあって、期待される役割があって。
でも、それらを外した状態で、「僕」を見てくれる人はいなかった。
誰かに話したいことがあったわけじゃない。
ただ、何も背負っていない自分が、どんなふうに存在できるのか。
それを、確かめたかった。
(……この世界は)
それが、許される場所だった。
失敗しても、ズレても、奇妙に見えても。
それを「正しくない」「おかしい」と即座に断定されることはない。
現実のように、1度の選択で決定的に評価されることもない。
他人のフィルターを通して見られるわけでもない。
何かの価値観を押し付けてくることもない。
だから、正解を出さなくてもいい。
理由を説明できなくてもいい。
形にならなくてもいい。
ただ、試してみることができる。
――その感覚に、どこかで聞き覚えがあった。
(……そういえば)
以前、セツナさんも、似たようなことを言っていた。
「この世界で、やってこなかったことを試してみたい」
そんな意味のことを。
はっきり覚えているわけじゃない。
ただ、今の考えと自然に重なった。
(……似てるのかもしれないな)
意識して比べたわけじゃない。
そう思おうとしたわけでもない。
ただ、別々に考えていたはずの点が、ふと、つながったような感覚だった。
そのまま、いくつか取り留めのない考えが浮かんでは消える。
過去の自分。
この世界に来た理由。
今の在り方。
意味があるのかどうかも分からないまま、思考は流れていった。
そしてふと――。
端末に表示された時刻が目に入る。
(……もう、こんな時間か)
思わず、息を吐く。
(僕は……何を考えていたんだ)
一瞬、分からなくなって、それから、少しだけ分かった気がした。
(……自分が、どう在りたいか、か)
答えはない。
結論も出ていない。
それなのに、不思議と疲労感はなかった。
むしろ――
どこか、軽い。
「無意味に思える時間」を過ごした、はずなのに――。
だけど、なぜかそのことを否定したい気持ちにはならなかった。
ただ、流れに任せてただ思考していた自分に気が付いて、セイはふと小さく苦笑した。
そしてセイは、それ以上考えるのをやめ、自然と立ち上がった。
(……まあ、いいか)
そう思いながら、いつもの流れに静かに戻っていった。
(第50話に続く)