原爆ドームが語らせる4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆ドーム北側2階部分

 広島県物産陳列館設立の目的は広島県における産業振興と特産品の販路拡大だった。2階が県特産品の常設展会場となり、3階が催し物会場となった。1919年には第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人の作品を展示販売する「似島獨逸俘虜技術工芸品展」が開催され、この時カール・ユーハイムがバウムクーヘンを作って販売している。(広島地理教育研究会『ひろしま地歴ウォーク2』空の下おもてなし工房2020)

 物産陳列館(後の産業奨励館)は、商品を展示販売するだけでなく、講演会や美術展、音楽会と幅広く活用されて市民に親しまれた。特に広島の美術発展に貢献したようで、1916年に初めて県美術展覧会が開催されてから1930年代まで、3階の催物会場では美術展が入れ替わり立ち替わり開かれたという。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)

 そしてこうした催し物会場の裏側も子どもたちにとっては絶好の遊び場だった。田邊雅章さんが回顧する。

 

 スレート葺きの屋根裏は倉庫で、常設展以外の特産品、備品、絵画、古新聞などが収納されており、かくれんぼではぜったいに見つからない場所であった。(田邊雅章『原爆が消した廣島』文藝春秋2010)

 

 広島県物産陳列館は1921年に広島県商品陳列所と改称され、1933年には、日本が植民地支配した「朝鮮」「台湾」「満州国」との貿易振興をはかる広島県産業奨励館に衣替えをした。田邊さんの著書『原爆が消した廣島』には、産業奨励館に入っていた事務所の写真がある。写っているのは10人。木製の立派な机と椅子で業務にあたっている。2023年1月4日付の中国新聞によると、この事務所は奨励館2階にあった日本貿易振興会社広島支店で、撮影者の古河秀雄さんがこの会社に入社した1941年春から42年末に兵隊にとられるまでの間に撮影された。日中戦争が泥沼化し、さらにアメリカ・イギリスとも戦争が始まっていった頃、この事務所ではどんな仕事をしていたのだろう。「貿易振興」といっても平和な時代のそれとは異なっていたと思うのだが。

 戦争が激しくなるにつれて産業奨励館で開催される美術展も戦争の色が濃くなっていき、有名画家の戦争画を展示した1943年12月の「聖戦美術傑作展」が最後の催しとなった。そして1944年3月31 日に産業奨励館の業務は停止され、展示室は官公庁や統制会社の事務所で埋まった。早いところでは日本木材株式会社広島支店が1941年6月に事務所を設けている。この会社は戦時下に中央で木材の生産と配給を統制し、1944年7月に発足した広島県地方木材統制会社、それに広島船舶木材株式会社を合わせた三つの木材統制会社の事務所が産業奨励館2階北側に集まった。

 2階にはそのほかに広島県警察部保険課などが入り、3階と1階の一部には1943年11月に設置された内務省中国四国土木出張所が入って1945年8月6日を迎えた。