広島県地方木材統制会社慰霊碑
1945年8月6日の朝8時、前日の日曜日から産業奨励館で宿直していた広島県地方木材統制会社の社員道田正雄さんは束の間の眠りを破られた。前夜の空襲警報で始業時間は1時間遅い9時のはずなのに、通勤列車の時刻表に変更がないから、いつも通り8時前に会社に着いた同僚が「まだ寝ているのか」と叩き起こしたのだ。道田さんは眠い目をこすりながら自転車を走らせて10分ほどで家に帰り、命拾いした。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)
原爆ドームのそばにある「広島県地方木材統制会社慰霊碑」には、この会社の社員は260人で、本社が産業奨励館に置かれていたと記されている。県内の木材業者を統合し丸太の購入、製材、販売を管理統制した会社にあって、道田さんは軍に納入する材木を調達するために県内各地を飛び回っていたと語っている。「軍が言い出す無理難題をさばくのに、毎日必死だった」とか。
軍はどんな無理難題を押し付けてきたのだろう。材木を何に用いようとしたのだろう。それで一つ思いついたのは坑木だ。「本土決戦」が叫ばれるようになると広島でもとにかくトンネルが掘られた。倉庫にするとか地下工場にするとか、第二総軍司令部のために二葉山に掘られた地下壕はかなり規模が大きかったようだ。トンネルを掘ったら落盤を防ぐために大量の坑木が必要となる。
1944年に広島市の東にある海田町に置かれた特設陸上勤務103部隊は兵士の半分が朝鮮で徴兵された部隊で、トンネルを掘るのが専門だった。1945年2月には阿品(現 廿日市市)で地下倉庫にするトンネルを掘ったが、坑木にする木の伐採や製材はこの部隊が直接行っている。この頃になると木材統制会社を通して調達するのがもどかしいほど切羽詰まっていたのだろうか。(広島の強制連行を調査する会『地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働』明石書店1992)
また堀川惠子さんの著書『暁の宇品』にこのような記述があった。太平洋戦争の始まる前、日中戦争が泥沼化した頃の話だ。
軍用船は兵隊の輸送のみならず病院船、給炭船、検疫船に工作船と、用途に応じた多様な艤装が必要で、特に消費量の多いのが木材だ。運輸部ではそれまで広島県北部山系だけで事足りた木材を、石川県、徳島県、和歌山県、島根県、九州にまで部員を派遣して必死に買い集めた。同様の事情は海軍も抱えていて、国内では軍需資材の争奪戦が日常となった。(堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社2021)
これが太平洋戦争になると国内で必要な資材を調達することは次第に困難になっていった。1943年ごろになると枯渇するアルミニウムに換えて木製の戦闘機を作る計画まで立てられている。1944年12月1日付の中国新聞に「伐り出せ決戦資材」「木材こそ決戦兵器」という記事が載った。昼でも暗かった中国地方の山林は、材木や木炭を生産するために木が次々と切り倒され、戦争が終わる頃には丸裸になってしまったという。(青木暢之・畑矢健治『聞き書き ふるさとの戦争』農山漁村文化協会1995)
