原爆ドームが語らせる3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

かつての産業奨励館の表玄関の奥に階段棟が見える

 原爆ドーム東側のエノキが枝を伸ばしているあたり、原爆で焼け野原になる前は田邊雅章さんの生家があった。1937年生まれの雅章さんが幼い頃、産業奨励館は格好の遊び場だった。

 

 正面に向かって左右に大理石の太い柱を構え、奥まったところに中二階への階段があった。この階段をらせん状という人がいるがそれは間違いで、中二階からは両側の壁に沿って半円形の階段が二階へと延び、二階から三階までは、おなじように中三階をへて階段が左右に分かれていた。

 こと細かく覚えているのは、奨励館全体が私の遊び場だったからである。玄関口あたりは川遊びの休憩所、ときには三輪車のサーキット場となった。雨の日にはエントランス・ロビーの階段の手すりを、滑り台がわりにして遊んだ。足からすべるのは初心者で、階段にすっかり慣れ親しんでいる“上級者”は腕をあげて頭からすべった。(田邊雅章『原爆が消した廣島』文藝春秋2010)

 

 現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年に広島県物産陳列館として建設された。設計したのはチェコ人のヤン・レツル。レンガ造の3階建てでドームのある階段棟は5階建て。建物の外側はモルタルと石材で装飾し、内部は木の梁を渡して木製の床板を張っていた。内装も近所の子どもたちが遊んだ階段も木製だったから、外観は石造り風に見えても、内部は木造の建物という言い方もできよう。 (Webサイト「arch-hiroshima」)

 またこの建物にはコンクリートも部分的に用いられていた。

 

 陳列館は、窓がやたらに大きく、また多い。窓が大きいと、構造上は弱いといわれる。実際、関東大震災に耐えた東京駅は窓が小さい。

 ヤン・レツルに詳しい原爆資料館の嘱託、雨野忍さん(三八)は、

 「窓が広いのは、物産の陳列という建物の役割上、採光がよくなければならなかったからです。レツルは地震の少ないヨーロッパの建築技術を受け継いでいたが、窓枠の周りを鉄筋コンクリートにし、地盤改良のために杭を打つなど、レツルなりに地震国・日本に適応するよう工夫はしていた」

 と分析する。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)

 

  楕円形のドームは鉄骨で形作られ銅板が葺かれていた。産業奨励館の近くに住んでいた人の証言がある。

 

 「丸屋根は緑青をふいた銅板で覆われていました。年月がたっているから、多少黒っぽくなっていますが」(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)

 

 ドームの銅板は原爆の熱線で一瞬のうちに溶けてしまっただろうが、瓦礫の中からはスレートという黒くて薄い石材のかけらが見つかっている。これがドーム以外の屋根を覆っていた。原爆の爆風で粉々にされてしまい、見つかるのは手のひらぐらいの大きさだという。