かつての産業奨励館の表玄関の奥に階段棟が見える
原爆ドーム東側のエノキが枝を伸ばしているあたり、原爆で焼け野原になる前は田邊雅章さんの生家があった。1937年生まれの雅章さんが幼い頃、産業奨励館は格好の遊び場だった。
正面に向かって左右に大理石の太い柱を構え、奥まったところに中二階への階段があった。この階段をらせん状という人がいるがそれは間違いで、中二階からは両側の壁に沿って半円形の階段が二階へと延び、二階から三階までは、おなじように中三階をへて階段が左右に分かれていた。
こと細かく覚えているのは、奨励館全体が私の遊び場だったからである。玄関口あたりは川遊びの休憩所、ときには三輪車のサーキット場となった。雨の日にはエントランス・ロビーの階段の手すりを、滑り台がわりにして遊んだ。足からすべるのは初心者で、階段にすっかり慣れ親しんでいる“上級者”は腕をあげて頭からすべった。(田邊雅章『原爆が消した廣島』文藝春秋2010)
現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年に広島県物産陳列館として建設された。設計したのはチェコ人のヤン・レツル。レンガ造の3階建てでドームのある階段棟は5階建て。建物の外側はモルタルと石材で装飾し、内部は木の梁を渡して木製の床板を張っていた。内装も近所の子どもたちが遊んだ階段も木製だったから、外観は石造り風に見えても、内部は木造の建物という言い方もできよう。 (Webサイト「arch-hiroshima」)
またこの建物にはコンクリートも部分的に用いられていた。
陳列館は、窓がやたらに大きく、また多い。窓が大きいと、構造上は弱いといわれる。実際、関東大震災に耐えた東京駅は窓が小さい。
ヤン・レツルに詳しい原爆資料館の嘱託、雨野忍さん(三八)は、
「窓が広いのは、物産の陳列という建物の役割上、採光がよくなければならなかったからです。レツルは地震の少ないヨーロッパの建築技術を受け継いでいたが、窓枠の周りを鉄筋コンクリートにし、地盤改良のために杭を打つなど、レツルなりに地震国・日本に適応するよう工夫はしていた」
と分析する。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』朝日文庫1998)
楕円形のドームは鉄骨で形作られ銅板が葺かれていた。産業奨励館の近くに住んでいた人の証言がある。
「丸屋根は緑青をふいた銅板で覆われていました。年月がたっているから、多少黒っぽくなっていますが」(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)
ドームの銅板は原爆の熱線で一瞬のうちに溶けてしまっただろうが、瓦礫の中からはスレートという黒くて薄い石材のかけらが見つかっている。これがドーム以外の屋根を覆っていた。原爆の爆風で粉々にされてしまい、見つかるのは手のひらぐらいの大きさだという。
