峠三吉は1950年5月に詩「よびかけ」を書き、それから「一九五〇年八月六日」「ほんとうのこと(後に「ちいさい子」と改題)」「河のある風景」「墓標」と立て続けに原爆詩を書いて発表した。それは同年6月に始まった朝鮮戦争とそれに連動した日本国内の反動化への抵抗だったが、さらに11月30日、トルーマン大統領が朝鮮戦争での原爆使用をほのめかしたニュースが三吉に大きな衝撃を与えた。
峠三吉はそのころ西条療養所(現 東広島医療センター)に入院していたが、原爆反対の意思を一層強くして詩作を続け『原爆詩集』をつくりあげた。「ある婦人へ」はそうした入院中に書かれた原爆詩の一つと思われる。
裂けた腹をそらざまに
虚空を踏む輓馬の幻影が
水飼い場の石畳をうろつく
輜重隊あとのバラック街
(峠三吉 詩「ある婦人へ」部分 『原爆詩集』岩波文庫2016)
1947年に空から撮影された基町住宅街の中を、後年に発掘された石畳の上を、峠三吉は歩いたのだろう。あたりの景色をこう表現する。
風車がゆるやかに廻り
菜園に子供があそぶこの静かな町(詩「ある婦人へ」部分)
峠三吉がこの街を訪れたのは、一人の女性と会うためだった。
溝露路の奥にあなたはかくれ住み
あの夏以来一年ばかり
雨の日の傘にかくれる
病院通い
(中略)
あなたは
死ぬまで人にあわぬという(詩「ある婦人へ」部分)
この女性は原爆に顔を焼かれ今は目から鼻にかけて顔をケロイドが覆っているという。そして片腕をもぎ取られており、残った手で編み物をして家に籠っているのだ。街が静かなのは、この女性のような人たちが多く息を潜めていたからかもしれない。
峠三吉は「ある婦人へ」の草稿も残している。これには峠三吉と女性との関係がもっとはっきり表現されている。
會おう 會おう この晴れた日の下で今こそ向き合おう
たといあなたがはげしく嫌悪しようとも、恨みの視線でわたしを刺そうとも
(峠三吉 詩「ある婦人え」(草稿) 広島市立中央図書館Web広島文学資料室)
峠三吉は何とかしてこの女性と会って外に連れ出し、「化けものの集いを衆目にさらして/世界中の人の心にケロイドの苦悩を灼きつけよう」(詩「ある婦人え」草稿部分)とした。二度と原爆を使わせないためには被爆者が自分の体でその悲惨さを世界の人たちに知らしめなければならないという思いから。心を閉ざしたままの女性だが、それでも三吉は諦めずに語りかけようとする。
固いかさぶたのかげで
焼きつくされた娘心を凝らせるあなたに対(むか)い
わたしは語ろう
その底から滲染(し)み出る狂おしい希(ねが)いが
すべての人に灼きつけられる炎の力を(詩「ある婦人へ」部分)
それは、「あたらしくかぶさる爆音」に抗って、「世界の闇を喰いつくす闘い」に共に立ちあがろうという呼びかけなのだ。けれどその呼びかけに答えてもらえないのはなぜなのか、街全体が静まり返っているのはなぜなのか、未だに女性と向き合えていないのはなぜなのか、残念ながら三吉の詩からは見えてこない。
では、大田洋子はどうだろうか。