ヒロシマを歩く28 馬碑は見た10 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 大田洋子は日中戦争、太平洋戦争のころに流行作家として名が知られたが、1945年1月になると空襲の激しくなった東京から広島に疎開した。そして8月6日を白島九軒町にある妹の中川一枝さん宅で迎える。

 原爆で白島の街も焼け野原となった。負傷した大田洋子は母、妹とともに京橋川の河原で3日間野宿し、それから佐伯郡玖島村(現 廿日市市)の知人宅の二階にしばらく寄宿して、そこで小説『屍の街』を書き上げた。

 江刺昭子さんの『草饐(くさずえ) 評伝・大田洋子』(濤書房1972)によると、1945年11月に書き上げられた『屍の街』は出版社が占領軍による弾圧を恐れたため、1948年11月になってようやく出版された。けれどその中身は検閲を恐れて出版社が一部を削除しており、大田洋子にとって極めて不本意なものだった。

 それでも『屍の街』は世間の注目を浴び、続く『人間襤褸』(1951)や『半人間』(1954)は高い評価を得る。しかし原爆を体験した人間にとって原爆を描き続けることがどれだけ苦しいことか。「書くためには想い起こさなくてはならず、それを凝視していると、わたしは気分がわるくなり、吐気を催し、神経的に腹部がとくとく痛くなった」と大田洋子は記す。(大田洋子「『屍の街』序」『人間襤褸/夕凪の街と人と』小鳥遊書房2021)

 それでも原爆を書くことをやめず大田洋子は広島に取材に出かけていく。そうして生まれたのが『夕凪の街と人』(1954)だった。この小説の舞台となるのが旧軍用地につくられた基町住宅街と川土手にうまれた「相生通り」だ。

 『夕凪の街と人』の出だし、1953年の夏、小田篤子は母と妹のテイ子が暮らす広島を訪ねた。篤子らの乗った自動車が基町の住宅街に入ると見渡す限り同じような家が建ち並んでいて、住民のテイ子でさえ道がわからなくなってしまうような街だった。

 

 「おんなじ家ばかり、何千件もあるからねえ。いったい、ハモニカ住宅というのは、何千件ほどあるもんですかね」

 若い運転手は横柄な口をきいた。この広い異様な区域の有様を馬鹿にしている口ぶりだった。(『人間襤褸/夕凪の街と人と』)

 

 小さな四角い家がずらっと横並びになっているから「ハモニカ住宅」なのだろうか。今はサッカースタジアムの芝生広場になっているあたりには細長い、それこそハモニカみたいな「十軒長屋」がいくつも並んでいた。そのあたりはかつて砲兵補充隊があった場所だ。

 

 二つの巨大な石の門柱が残骸めいて向かい合っている。コンクリートの歩哨舎が、左手横にぽつんと立っていた。これも残骸であった。いまはたった一人の兵隊もそこにいなかった。石の門柱と歩哨舎は、なにかの影のようだった。(『人間襤褸/夕凪の街と人と』)

 

 1952年の広島の風景をおさめた写真集『立ち上がるヒロシマ』(岩波書店2013)にも、大田洋子が描写したそのままの門柱と歩哨舎が写っている。それらはついこの間まで「軍都」と呼ばれていた広島の残骸。その残骸が広がる基町には多くの人たちが埋もれて暮らしていた。