広島YMCAにある済美学校と「墓標」の碑
広島城本丸跡西側の旧軍用地は、戦後、そのすべてを中央公園にする計画だった。しかし一方で市内には住む場所のない人があふれており、住宅建設は緊急の課題だった。
(中央公園の)計画決定が二十一年九月。そして、その月下旬には越冬住宅のバラック十軒長屋二百戸が、基町の旧軍用地に建てられた。焼けトタンで雨をしのいでいた市民は完成しないうちからはいり込んだ。公園用地をとりあえず使用した住宅建設だった。これがのちに公園用地十二万平方メートル、ちょうど平和記念公園の広さだけの公園除外をしなければならないハメとなり、中央公園の計画は総くずれとなる。(中国新聞社『炎の日から20年 広島の記録2』未来社1966)
1947年に撮影された航空写真を見てみると、今の市立中央図書館や県立総合体育館(グリーンアリーナ)から北に向かって基町高層アパートが建っているあたりまで、当時はちっぽけな住宅がずらりと並んでいた。(被爆70年史編集研究会『広島市被爆70年史』広島市2018)
こうした行政の建てた住宅は、できるだけ早くできるだけ多く建てる必要があったため、トタン屋根に板を打ちつけただけの外壁といった極めて簡素なものだった。水道も6戸から8戸に一か所の屋外共用だった。
一方、排水施設は、旧軍施設の排水桝を利用する程度で、雨水も自然吸い込みあるいは入居者による素掘り溝に任せるといったものであった。排水施設がないため降雨時には通路がぬかるんだり、水たまりとなって、通行が難渋する。そこで通路へ土を入れると今度は宅地部分が水たまりとなり、大雨のときは床下へ浸水し、便槽へ流入することもあった。(戦災復興事業誌編集研究会『戦災復興事業誌』広島市都市整備局1995)
床下に水が溜まるくらいだから住宅はすぐに朽ちていく。それにもともと公園用地だから、いつまでここに住めるかわからない。そんな街と街の人たちの様子を詩に書いたのが峠三吉で、小説にしたのが大田洋子だった。峠三吉の詩「墓標」が発表されたのは1950年10月だ。
積み捨てられた瓦とセメント屑
学校の倒れた門柱が半ばうずもれ
雨が降れば泥沼となるそのあたり
もう使えそうもない市営バラック住宅から
赤ん坊のなきごえが絶えぬその角に
君たちは立っている(峠三吉 詩「墓標」部分『原爆詩集』青木文庫1952)
詩は、この年の6月に始まった朝鮮戦争に抗って広島の反戦平和運動が盛り上がるのに対して、8月6日の全ての平和集会を禁止するなど徹底した弾圧が行われる中で書かれた。そして「広島平和都市建設」の掛け声のもと、一見すると鉄筋コンクリート造りだが実はモルタルを塗りつけた木造建築という、まがいものの「てんぷら建築」が次々と姿を現す広島の「復興」と対比させ、置き去りにされた「市営バラック住宅」が取り上げられている。それらを見ながら峠三吉は、「負けるものか まけるものか」と詩「墓標」に書き込んだ。