ヒロシマを歩く19 馬碑は見た1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

ファミリープール横にある馬碑

 ファミリープールのそば、新しいサッカースタジアムを見上げるように「馬碑」が立っている。背には「昭和三年秋十一月建之」の文字。1982年に輜重(しちょう)隊の戦友会が「隊跡馬碑」として整備し、2006年に説明版を設置している。

 日本の軍隊は兵器や弾薬、食糧などの輸送に馬を使ってきた。村から馬を徴発(強制的買い上げ)し、輜重隊で、乗馬や荷車を引く輓馬(ばんば)、荷物を背負わせる駄馬(だば)として調教が行われた。戦友会の説明版「馬碑の由来」にはこう記されている。

 

 初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやって来る!」と、古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。(有富部隊戦友会「馬碑の由来」2006)

 

 この馬碑は、1970年代まで今の場所から80mぐらい南の河岸にあって「相生通り」のバラックに囲まれていた。その「相生通り」が姿を消して基町護岸を新たに設計・施工をする際、馬碑が乗っかっていた土台が広島城の櫓の石積みだということがわかった。江戸時代の広島城は、太田川を外濠として今の相生橋から北の三篠(みささ)橋あたりまで13もの櫓が築かれていたのだ。石積みは発掘調査の後で埋め戻され、今はわずかに上端の石だけが見える。そして馬碑が今の場所に移されたのだ。

 2021年6月、サッカースタジアム建設の前に発掘調査したところ輜重隊の被爆遺構が見つかった。馬の手入れ場、厩舎、水飲み場の石畳などで、鉄かぶとや食器なども出土した。この場所で400人以上の将兵と多くの馬の命が失われたと言われる。被爆時の名称は「中国軍管区輜重兵補充隊(輜重隊)」。第5師団に属する「輜重兵第五連隊」が日中戦争開始とともに中国に渡った後、その補充隊が置かれ、1945年になって「本土決戦」が叫ばれると輜重隊も毎日防空壕を掘ったり市内の民家を取り壊す作業に追われ、そして8月6日を迎えた。

 原爆で焼け野原になった広島。野宿では広島の冬を越せない。行政は越冬用の応急措置として基町一帯にバラックを建てた。最終的にその数約1800戸。

 

 長津さん父子が輜重隊跡地に住んだのは最初に建った越冬住宅の平屋。4畳半と6畳の2間に土間、外に簡易な便所。屋根はあっても天井はなく、壁には節穴が開いていた。共用水道も20軒に1カ所だった。畑からは輜重隊の名残か、馬の骨が出てきたという。(「中国新聞」2021.7.16)

 

 7、8年も経つと材木は腐りナメクジが這いまわるようになった。それでも、そこには人々の暮らしがあった。

 かつて馬碑は輜重兵の汗と泥にまみれた姿を見つめ、中国や東南アジアの戦場の話を聞き、原爆の熱線と爆風に耐え、そして戦後のバラックに身を寄せる人たちの笑顔や涙を見てきたはずだ。でも馬碑は何も言わない(石だから)。ここで何があったのかを知るには、馬碑に関わった人たちの記憶の糸をつないでいくしかないようだ。