正田篠枝の1945年35 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 まざまざとほろぶる世界みさだめたりくるはぬ真理したはしきかな

 (正田篠枝「唉! 原子爆弾」1946『さんげ 復刻版』)

 

 この歌は正田さんの原爆歌の中ではちょっと変わっている。具体的な出来事が詠まれていないのだ。次の藤沢イチノさんから聞いた話を詠んだ歌とセットにして考えてみる。

 

 焼けへこむ弁当箱に骨を入れただこれのみが現実のもの

 (「唉! 原子爆弾」)

 

 現実は残酷だったが、藤沢さんや正田さんにとって、それゆえに慕わしい真理とはなんだろうか。想像するしかないが、藤沢イチノさんは『ゆうかりの友』のアンケートに答えた時に自分の住所を浄土真宗のお寺にされている。元々お寺の出身ではなかろうか。そして正田篠枝さんは熱心な浄土真宗の門徒(信者)だった。浄土真宗で信じる阿弥陀仏の「阿弥陀」とはインドの言葉アミタで、無限を意味する。そして「仏」はブッダの略語、真理を悟った者、または真理そのものを意味する。

 藤沢イチノさんの子ども瀁さんは私立の光道国民学校卒業。そして正田篠枝さんの子どもの槙一郎さんは、被爆時は光道国民学校の5年生だった。光道国民学校を経営した団体は闡教部(せんきょうぶ)と言い(「闡教」とは教えを広めるという意味)、猫屋町の西本願寺派明教寺の門徒が明治になって法話会を始め、やがて子どもたち相手の塾(寺子屋)を始めた。以後光道館、光道小学校と名前は変わったが、一貫して幼稚園や小学校での宗教教育に熱心に取り組んだ。1943年卒業の細川千壽子さんが思い出を書いておられる。

 

 お数珠とお経本を入れて学校へ通うため、母の縫ってくれた小さなお参り袋の暖かみも未だ掌に残って居ります。登校時のお参り、火曜日の午前中のご法話等、幼い時から、「南無阿弥陀佛」と掌を合わす事をお導き下さいました教育を、年を重ねるごとに有難く存じる様になりました。(細川千壽子「心の土壌“光道館”」広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』1990)

 

 広島市内には光道国民学校の他にも浄土真宗系の崇徳中学、進徳高等女学校があるなど真宗の盛んな土地柄。多くの人が日々「南無阿弥陀仏」を唱えていた。

 広島一中1年11学級の山本照夫さんは8月20日に父や姉に見守られながら息を引き取った。元々少年航空隊志望だった照夫さんは死ぬ前に「あ、飛行機が、あそこにも、ここにもたくさん、僕突っ込むよ僕突っ込むよ」とうわ言を言っていたが、やがてこう言い出した。

 

 「ああ、きれい、赤、青、黄、緑」と指差してうっとりしていましたが、突然「あ、仏様が、あ、お母ちゃん」手を差しのべて抱かれて行く様にそのまま息をひきとって行きました。(広島県立一中被爆生徒の会『ゆうかりの友』1974)

 

 照夫さんは4年前に亡くなった母親の待つ極楽浄土に旅立ったのだった。

 藤沢イチノさんもまた、この世は仮の世、「ほろぶる世界」、我が子のいるお浄土こそが真の世界なのだと、正田篠枝さんと涙ながらに語り合ったのではなかろうか。